江戸幕府の歴代将軍のなかで、最も後世に悪評を残している将軍は誰でしようか?
よく言われているのが、13代将軍の徳川家定だと言われています。
しかも、最後は暗殺されたのではないか、とまで言われています。
今回は、この徳川家定についてご案内します。
★労せずして13代将軍となる
先代の12代将軍・家慶は、20数名の子を授かったものの、無事に成長した男子は家定一人だけであったため、家定は30歳の時に13代将軍の座につきました。
しかし、家定は虚弱体質の上に奇行が目立ち、周囲の家臣は目を覆うばかりでした。
例えば、いい大人なのに鳥を追いかけ回して喜んだり、家臣に小銃を突きつけて驚く様子を見てはしゃぐなど、「まるで童のごとし」と言われるほどでした。
また、料理が好きで、サツマイモやカボチャを煮たり、饅頭やカステラを作るなどを趣味としていましたので、「イモ公方」と陰口されていました。
さらに、癇癪持ちで正座もできなかったため、「癇癖将軍」とも陰口されていたと伝わっています。
この家定、将軍就任後、僅か5年で死亡してしまいました。死因は脚気とされています。
そして、家定には子ができなかったため、その在世中より、次の将軍の継嗣問題が持ち上がっていました。
★14代将軍候補者の争い
14代将軍候補は2名いました。
まず、一人目の候補者は、水戸藩主・徳川斉昭の子で御三卿の一橋家に養子に出していた一橋慶喜でした。
彼は、結局15代将軍となりますが、少年の頃から才覚が高く評価されており、「家康の再来」とも言われていました。
また、12代将軍・家慶には、家定しか後継者がいなかったため、慶喜を養子に迎えて13代将軍にしようかとも考えられていました。
次に、もう一人の候補者は、紀伊藩主・徳川慶福(のちに家茂に改名)でした。
彼は、家定に近い血筋ということで継承候補者となったのでした。
そして、この二人の候補者を巡って幕府内に派閥が形成されることになりました。
まず、一橋慶喜を支持したのが福井藩主・松平春嶽、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内容堂、そして水戸藩主・徳川斉昭らで、彼らは「一橋派」と呼ばれました。
一方、慶福を支持したのが、彦根藩主・井伊直弼ら譜代大名や大奥で、彼らは「南紀派」と呼ばれました。
★一橋派と南紀派の熾烈な争い
一橋派と南紀派は、熾烈な争いを繰り広げます。
平時であれば血統が重要視されるので、慶福がすんなりと決まっていた可能性が高いと思われます。
しかし、折しもアメリカ提督ペリーが開国を迫っている非常事態であり、一橋派の言い分も十分に筋が通っていました。
結局、大老に就任した井伊直弼が強権を発動して南紀派が優勢になりました。
そして、井伊直弼を大老に任命したのは、それまで将軍らしい振る舞いをしていなかった家定でした。
つまり、家定は死の間際で初めてリーダーシップを発揮したのでした。
ただし、一説には、家定は南紀派であった大奥から「一橋派があなたを将軍から引きずり降ろそうとしていますよ。」と吹き込まれ、慌てて南紀派支持にまわったとも言われています。
★家定の死因の噂
そして、家定が亡くなったのは、井伊直弼が慶福を将軍後継者としてからまもなくのことでした。
死因は脚気ですが、この時、不可思議が生じました。
それは、なぜか家定の死は、死後1か月の間、公表されませんでした。
そのため、巷では、家定は暗殺されたのではないかと噂されるようになりました。
★では犯人は誰か
当初、犯人と言われた人物は、後継者争いに敗れた一橋慶喜の父・斉昭でした。
彼が岡櫟仙院と称する奥医師と共謀して家定を毒殺したというものでした。
また、その後、浮上してきた説として、井伊直弼が犯人ではないかという説もありました。
これは、慶福を後継者として選んだまでは良かったものの、家定には正室・篤姫が付いていました。
彼女は、一橋派の薩摩藩主の養女であり、家定が篤姫に口説かれて一橋派に傾くようなことでもがあれば、一気に情勢が変わる恐れもあったからでした。
このため、慶福の次期将軍の座を確固たるものにするため、殺害したのではないかというものです。
いずれにせよ、今となっては推測の域を出ませんが、将軍の死が一ヶ月間公表されないというのは、何か他の理由が考えられないことでした。
★最後に
それでは、これまでの内容をまとめます。
・徳川の歴代15名の将軍のなかで、後世まで悪評があるのは13代将軍家定。
・子供のように鳥を追いかけまわしたり、癇癪持ちで正座もできなかったとも言われている。
・家定には子がなく、後継者が誰になるかで幕府内で派閥が形成される。
・結局、大老・井伊直弼が慶福(家茂)に決定する。
・すると、まもなく、家定は死亡。
・死亡後、一ヶ月間も公表されなかったため、暗殺説が囁かれる。
・また、犯人は徳川斉昭の説と、井伊直弼の説があるが、いずれも確固たる根拠はない。