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★尼将軍と言われた北条政子の演説
承久の乱というと、一番初めに、尼将軍と言われた北条政子の演説を思い浮かべる方も多いと思います。
実際、承久の乱は、幕府が朝廷に弓を弾くという、誰が見ても不利な戦いでした。
当時、朝廷に対して戦争をするというのは、朝敵と言われ、歴史上に汚名を残す最たるものでした。
例えば、後の世の話になりますが、足利尊氏は、朝敵になるのが嫌で、後醍醐天皇とは別の北朝を立てましたし、徳川慶喜は、天皇が薩長軍に味方したとみるや、戦争中であるにもかかわらず、大坂城の抜け出し、江戸城に帰ってしまいました。
通常であれば、不利極まりないこの戦争を、幕府側の勝利に導いたとされる北条政子の演説、ここでは、どのようにして、北条氏がこのピンチを脱して鎌倉幕府を基礎を固めていくのかを御案内していきます。
★初代将軍源頼朝の死亡後の幕府の状況
鎌倉幕府を確立した源頼朝は、1199年に落馬事故により死亡します。
これにより2代将軍には、頼朝の長男である頼家が就任します。
しかし、頼家は、自分の気に入った者だけを取り立てる、いわゆるエコ贔屓が強く、多くの家臣たちから人望を得ることができませんでした。
このため、北条時政・政子親子によって、就任後、わずか4か月で幕府から追い出させてしまいました。
その後で、3代将軍に就任したのが、頼朝の次男実朝です。
実朝は、公家文化に通じ、当時京都で権勢を誇った後鳥羽上皇との関係を大切にし、右大臣の冠位を賜っていました。
しかし、この実朝も、頼家の子・公暁に暗殺されてしまいました。
★後鳥羽上皇の院宣
一方、この当時の京都で権勢を誇っていた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府が設立してしまったことによって、守護・地頭が幅を利かせ、朝廷の年貢が激減している状況を打破したいと考えていました。
このため、公家文化に明るい3代実朝を利用しようと考えていました。
しかし、実朝が殺されてしまいます。
2代目執権・北条義時からは、後鳥羽上皇の子供(親王)を4代目将軍として迎え入れたいという申し出がきました。
この申し出に対して、後鳥羽上皇からは、朝廷領の守護・地頭を廃止するという条件が出され、その内容は「朝廷領の地頭罷免の院宣」という絶対的な命令の形で発せられました。
★2代目執権北条義時の選択
北条義時は 「朝廷領の地頭罷免の院宣」を受けて考えます。この要求を飲めば、今度、朝廷からの要求は更にエスカレートしてくることは明らかです。
ましてや、相手は、朝廷の中でも切れ者として人望があり、文武両道とうたわれた後鳥羽上皇です。
恐らく、後鳥羽上皇にしてみれば、3代将軍実朝が公家文化に興味を持っていることを足掛かりに、朝廷復権を企てていたにもかかわらず、実朝が殺害されてしまったため、チャンスを逸したと思っていたところに、絶好の玉が投げられてきたと感じているに違いありません。
そして、義時は絶対命令である院宣を、頼朝公の名前を出して拒否します。
その回答内容は、「頼朝公が平氏騒乱の恩賞として任命された地頭には何の罪もございません。解任せよという命令には、従うことはできません。」
これに対して、怒りを露にする後鳥羽上皇。その後、今度は後鳥羽上皇から「北条義時追討の院宣」が発せられてしまいました。
この院宣は、義時だけを狙ったものであり、後鳥羽上皇としては、幕府の内部分裂を狙ったものでした。
★北条政子の演説で東国武士団を味方につける
この院宣に対して、北条家は、「尼将軍」と恐れられていた北条政子を立て、武士団を味方につけようと大演説を行います。
この演説は、院宣が発せられた直後、幕府に多くの御家人たちを集め、院宣の内容を「北条義時追討」と「鎌倉幕府追討」と巧みにすり替えた上で、次のように話ました。
「亡き頼朝公が鎌倉幕府を創設して以来、御家人に与えられた冠位や俸禄など、その受けた御恩は深い。しかし、朝廷は偽りの讒言により、非義の綸旨を下された、名を惜しむものは院の逆進を討つべきである。」
政子は、このように演説の中で、亡き頼朝公の御恩を強く訴え、上皇の院宣は不当なものだと言い放ちます。
そして、演説の中で、カリスマ的な存在であた頼朝公の名前を持ち出すことにより、御家人たちの勇気を奮い立たせたと言われています。
この北条政子の演説の直後、当初、義時は朝廷と戦うために、鎌倉で迎え撃つ作戦を考えていました。
ちなみに、鎌倉は海と山に囲まれた自然の要塞で、敵方にとっては、とても攻めにくく、味方にとって守りやすい場所を生かそうと考えてのことでした。
しかし、北条政子の演説で、ほとんどの御家人たちを味方に付けられると確信した義時は、たった18騎の騎馬隊で、鎌倉を出発し京都に攻めに向かいます。
これを聞きつけた東国武士団が続々と援軍に加わり、京都に着いたときは、19万の大軍勢に膨れ上がっていました。
★承久の乱での勝利
幕府軍は、この大軍勢で朝廷軍と戦い、たった1か月で撃破し、後鳥羽上皇は隠岐に配流なりました。
その後、義時追討の院宣は取り消され、官軍が負けるという前代未聞の戦いは、無事に幕を閉じました。
この承久の乱によって、鎌倉幕府の存在意義と幕府ナンバー2の地位を確立した北条氏。
この戦争は、虐げられてきた武士という存在が、朝廷という権威に立ち向かったものであり、これ以降、武家社会が確立していき、江戸時代までの約700年間の武士の世の礎を作ったものだと言えます。