歴史上の人物(女性)

井伊直虎はれっきとした女性ですが、当主として井伊家繁栄を築く

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 大河ドラマとなった井伊直虎。

 直虎は、れっきとした女性でした。

 しかし、井伊家のお家の事情から男性をよそおわないといけなくなります。

 しかも時代は、家康が若かりし頃の戦国時代の真っただ中です。

 今回は、彼女の驚くべき生涯をご紹します。

★井伊家のお家事情

 家康を支えた勇将で、彦根城の初代藩主は井伊直政です。

 「寛政重修諸家譜」では、女・直虎は直政の叔母になっています。

 しかし、井伊家の家督の流れを追って系図を考えると、直虎は、血はつながらないが、直政の「母」と言ってよい存在になります。

 直虎は生まれたときからこんな名前だったわけではありません。

 おそらく、しっかりとした女子の名前であったであろうが、その名は今日、伝わりません。

 それが井伊家の危機に直面して次郎法師と名乗り、やがて女ながらも地頭となって、直虎と称したのでした。

 「井伊家伝記」には「次郎法師は女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候間、僧俗の名を兼て次郎法師とは是非なく、南渓和尚御付け成され候名也」と記されています。

★井伊家の男に降りかかる悲劇

 女・直虎を取り巻く井伊家一族の男性たちは、戦国時代の戦いと陰謀によって次々と亡くなっていきます。

 遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を本貫の地とする井伊家の悲劇は、女・直虎の祖父・直宗にはじまります。

 祖父・直宗は天文十一年(一五四二)一月に今川氏に属して、戸田氏の三河田原城(愛知県田原市)を攻めた際に、野伏に襲われて討ち死にしました。

 このため、家督は、嫡子・直盛が継ぎました。

 しかし、その直盛には、息子はなく、娘が一人(直虎)いただけでした。

 そこでこの娘・直虎の婿養子に、祖父・直宗の弟・直満の息子である幼い直親を迎えて、将来結婚させることにしました。

★家臣の裏切り

 ところが 幼い直親を父・直盛の養子にすることを、徹底的にいやがった家臣がいました。

 父・直盛の重臣で、祖父の弟・直満と不仲だった小野和泉守でした。

 小野和泉守は、今川義元に、祖父の弟・直満とその弟の直義は今川家に逆意を抱いているとタレこみをしました。

 そして、これを信じた義元は直満・直義兄弟を駿府に呼んで糾問し、兄弟を生害(自害)させました。

 義元は、幼い直親を祖父の弟直満の家老だった今村藤七郎が松源寺で育てるという条件で一命をとりとめてくれました。

★幼い直親の成長

 幼い直親は、10年間、伊那の地に離れて住み、父・直盛は直親の赦免を今川義元にひたすら愁訴して許しを得ました。

 そして、晴れて直親は、井伊谷に戻り、直盛の養子となりましたが、伊那の地の松源寺で幼い直親の世話をしていた奥山因幡守親朝の娘と結婚してしまってました。

 このため、直虎は、許婚が破棄された形となり、髪を下ろすのでした。

★父・直盛の戦死

 こうして、5年が経過した頃、永禄三年(1560 年)五月、女・直虎の父直盛は義元に従って出陣し、桶狭間で織田信長の奇襲を受けて、義元同様に戦死してしまいました。

 このため、井伊家の家督は、直虎とは結婚しませんでしたが、直親が継ぎました。

★ようやく男子が生まれる

 そして井伊家二十三代当主となった直親に、翌年二月、男子である直政が生まれました。

 井伊家は、これでようやく安泰と思われました。

 

 だが、再びの不幸が井伊家を襲いました。

 かつて直親の父・直満をタレこんだ小野和泉守の子で、家老だった小野但馬守道好が、義元を継いだ今川氏真に「直親は密かに家康だけでなく信長にも志を通じ、陰謀を企てている」とタレ込みしたのでした。

 このため、潔白の直親は申し開きをしようと駿府へ向かいます。

 ところが途中、氏真の重臣である掛川城主の朝比奈泰朝に襲撃され、直親は殺されてしまいました。

 そして、今川氏真は、ようやく二歳になる嫡子・直政も今川家に差し出せといいます。

 このままでは、直政の命が危うくなると思われたので、井伊家の重臣・新野左馬助がかくまい、密かに自分の手で養育しました。

★新しい当主は直虎の曾祖父直平(井伊家二十代)

 井伊家は、当主が亡くなり、その嫡子・直政も2歳と幼く、命を狙わねかねない状況にあって、新しい当主は、直虎の曾祖父直平が返り咲きました。

 ところが永禄六年九月、曾祖父・直平も犬居城(浜松市)攻めに向かう途中、今川の家老・飯尾豊前守の妻に毒入りの茶を飲まされて、85 歳で突然死ししました。

★さらに嫡子・直政もピンチ

 しかも翌年、直政を養育していた新野左馬助が曳馬城(のちの浜松城)攻めで戦死してしまいました。

 これにより、左馬助が直政をかくまっていたことを知った今川氏真は、これを再び差し出すように言います。

 

 このため、左馬助の妻は直政を救う道は僧侶にするしかないと判断して、直政を浄土寺に入れて出家させました。

 だがここに、井伊家は最大の窮地を迎えました。

 直政以外に井伊家を継ぐ男子はいないのでした。

 だが、今川家の手前、相続は不可能でした。

★女・直虎を新しい当主に

 そして、永禄八年、井伊谷城に井伊一族と家臣団が召集されました。

 一同を前に龍潭寺の南渓瑞聞和尚が立ちました。

 女・直虎の祖父・直宗は五人兄弟の長子だったが、龍潭寺の南渓瑞聞和尚はその二男に当たりました。

 そして、その南渓は、次のように言いました。

 「井伊家は次々に悲運に見舞われ、ついに後継者がいなくなってしまった。

 この乱世にあって、前途は多難であり、前代未聞のことであろうが、道鑑(直盛)さまのご息女祐圓殿を我らの領主に仰ごうと存ずる」と言い放ったのでした。

 どよめきが起こり、不安顔の者もいました。

 ちなみに、ご息女祐圓殿とは、当然、女・直虎のことでした。

 しかしながら、それ以外に井伊家の生きる道はないのも事実でした。

 このとき、女・直虎は許婚だった直親の年齢から推察して三十歳前後と思われます。

★直虎は女であることを隠す

 このような経緯で当主となった直虎ですが、当主が女だと世間にばれるのは、この当時として無茶苦茶に具合の悪いことでした。

 そこで、髪を下ろしていた直虎は、祐圓尼の号を捨てて、次郎法師の号としました。

 また、俗名も男らしく直虎としました。

 このため、彼女は「次郎直虎」と呼ばれて敬われ、井伊家を差配するようになりました。

 そして、直虎が領内の政治を行いました。いわゆる、女地頭の誕生でした。

★女・地頭 直人の差配

 次郎直虎はもちろん家臣の良き支えがあったからでしょうが、過去の当主たちが苦しんできた今川家対応にも毅然とした態度で臨みました。

 今川家から領内でも徳政令を即刻実施するよう要求がきましたが、それをはねのけて、三年間引き延ばしました。

 また、氏真という人物から今川氏の没落を読み、家康へと接近する姿勢をとりました。

 さらに、井伊家の家老でありながら、井伊家の目の上の瘤となつた小野但馬守を放逐しました。

 後に家康は「井伊直親に徳川と内通した事実はない」として、但馬守の讒言は事実無根として捕らえると、その息子二人とともに、井伊谷蟹淵で獄門磔に処しました。

 そして、井伊家を苦しめつづけた今川氏は、家康、そして武田信玄の侵略によって衰退し、今川氏真はついに駿府・遠江の領国を捨てて、妻の実家の北条氏に流れていきました。

 これで、井伊家は、ようやく今川家の呪縛から解放されたのでした。

★直虎が楽しみにする直政の成長

 一方、浄土寺に預けられていた直政は、今川家の滅亡後、還俗して浜松に出に成長していました。

 女・直虎は、この直政の成長が心の支えでした。

 そして、直虎は、遠江を掌握した家康の傘下となることが、井伊家の生きる道だと確信していました。

 このため、直政を家康の直臣にしたいと働きかけました。   

 天正三年(1575 年)、直政が15歳を迎えたとき、家康が三方ケ原で鷹狩りをしており、その際に、直政は家康と対面しました。

 このとき、直虎は、直政の衣装まで仕立てて遣わしたと「井伊家伝記」にあります。

 家康は直政が井伊氏に復することを認めるとともに、次郎直虎が治める井伊谷を直政に安堵してくれました。

★当主を直政に譲る

 ここに直政は晴れて次郎直虎から所領を受け継いで井伊本家の当主となりました。

 女・直虎はここで肩の荷を下ろします。

 彼女は龍潭寺の塔頭・松岳院という庵に、老いた母祐椿尼と一緒に住らしました。

 そして、直政が徳川家康のもと、繁栄の兆しを見せるのを見守り、本能寺の変と同じ年の天正十年(一五八二)八月二十六日、安心したように静かに息を引き取りました。

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