大化の改新について、皆さんは学校でどのようにならわれましたか?
・曽我入鹿が、天皇にとって代ろうとして、自分の意にそぐわない人を殺していき、その中には聖徳太子の実子・山背大兄王もいた。
・これに危機感を持った、中大兄皇子と中臣鎌足が、暗殺を計画して実行した
・そして、この暗殺をきっかけとして、大化の改新が始まった
と習ったと思います。
実際に日本書記には、「蘇我入鹿は、天皇家にとって代わろうという野望を持っていた。」と記述されており、この野望に倒して、中大兄皇子が入鹿を討ったと記載されています。
ところが、近年、入鹿が天皇家にとって代ろうとしたという記述に矛盾があるという研究もなされています。
そして反対に、蘇我入鹿の暗殺には、暗殺の2日後に天皇となった孝徳天皇が、一時後継者争いを脱落したところから復活するために、蘇我入鹿が邪魔になり、暗殺を企てたとする説も研究されています。
今回は、この女帝であった皇極天皇の企てとは、どのようなものだったのかを御案内していきます。
目次
★蘇我入鹿によるの山背大兄王の襲撃
日本書記では、入鹿の暗殺の原因となった事件について御紹介しています。
この事件とは、聖徳太子の実子で、次期天皇の有力候補である山背大兄王を襲撃し、王とその一族を滅ぼしたことを挙げています。
そして、この襲撃により、「入鹿は王位転覆を狙っている。」とされています。
しかし、歴史的に多いこととして、勝者に都合よく書かれているケースが多いところです。
★王位転覆とは違った山背大兄王襲撃の理由
最近の研究では、入鹿の山背大兄王を襲撃は、王位転覆とは違った理由が考えられるようになっています。
日本書記には、入鹿の父・曽我蝦夷が山背大兄王を襲撃したことを知って、「入鹿は実に愚かで横暴な悪事を行ったものだ。」と、激怒したとされています。
しかし、曽我氏は、天皇家に娘を嫁がせ、婚姻関係を結ぶことによって、その権力を保ってきました。
このため、入鹿が暗殺した山背大兄王は、入鹿の従兄弟に当たります。
そもそも、山背大兄王の父・聖徳太子も曽我氏から妻をもらっていました。
つまり、曽我氏にとって、山背大兄王を襲撃することは得策ではなかったものと思われます。
で、あれば、入鹿は、なぜ山背大兄王を討ったのか。ここで考えられるは、山背大兄王が居なくなることによって、メリットがある人間は誰かということです。
その人物が殺害を命じたとすると、考えられるのは、山背大兄王と次期天皇の後継者争いをしていた人間となります。
後継者争いをしていた人は、3名います。
まず、一人目は時の女帝・皇極天皇の弟・軽皇子、二人目は入鹿の従兄弟の古人皇子、そして三人目が皇極天皇の実子・中大兄皇子の3名です。
日本書記では、入鹿が天皇にとって代ろうとした理由として、聖徳太子の実子で、次期天皇の有力候補である山背大兄王を襲撃し、その一族を滅ぼしたことを挙げています。
ここから、「入鹿は王位転覆を狙っている。」とされています。
★では3人の後継者の中で誰が怪しいのか
当時、天皇の後継者争いは、直系よりも経験や年齢が重要視されていました。
このため、当時18歳の中大兄皇子は、まだまだ年齢、経験的に不足していたので、動機としては薄いです。
次に、残りの軽皇子は47歳、古人皇子は30歳代とされており、どちらかが動機があったと言えます。
★後継者争いの他に理由はないのか
次に、天皇の後継者争いから別の観点から、動機を考えていきます。
この当時、皇極天皇は、都を飛鳥に定め、飛鳥京建設に意欲を注いでいました。
この理由は、皇極天皇が当時の中国の唐が長安に築いたような中央集権国家を目指すようになったことに起因するもので、そのためにも、飛鳥京の建設は不可欠だと考えていました。
しかし、皇極天皇の飛鳥京建設に立ちはだかった人物がいた。それが、次期天皇第一候補の山背大兄王でした。
つまり、山背大兄王の父・聖徳太子は、斑鳩に都を築きあげており、この一族は、上宮王家と呼ばれ、斑鳩を拠点としていました。
このため、山背大兄王が天皇になると、斑鳩に都が移ってしまう可能性があり、飛鳥京建設の大きな障害でした。
このような状況で、飛鳥京建設に執念を目指す皇極天皇が、軽皇子、古人皇子のどちららかと手を組んでも全然不思議ではないという理屈が成り立ってきます。
日本書記には、山背大兄王の襲撃は、「入鹿が独で企てた。」とされています。
しかし、「独」という言葉は、同じ日本書記の中で、別の場面では違う意味で記載されています。
この、別の場面で使われているというのは、「大王(=天皇)の命令を受けて、大臣(=蘇我蝦夷)が大失(=部下)に諮らずに実行した。」ということを「独」という言葉で記述していました。
つまり、その内容を考慮すると、「独」という言葉は、「天皇の命令を受けて実行する。」と解釈できる。
そして、そもそも論として、皇極天皇が、山背大兄王を討った入鹿になんのペナルティを与えていないばかりか、反対に、次の天皇として、第2候補だった軽皇子ではなく、第3候補で入鹿の従兄弟にある古人皇子を後継者として指名していることに違和感を覚えてしまいます。
したがって、入鹿が山背大兄王を襲撃したのは、個人的な権力闘争ではなく、皇極天皇の指示命令によるものと考えられます。
★山背大兄王の襲撃後に一番デメリットと受けた人
その一方で、当初次期天皇第2候補だった軽皇子は、入鹿が山背大兄王を襲撃したことによって最もデメリットを受けます。
年齢的にも、血筋的にも、皇極天皇の弟・軽皇子は完全に天皇から完全に脱落したことになってしまいます。
つまり、次の大きな事件である「入鹿暗殺」の大きな動機が生まれたことになってしまいます。
日本書記には、軽皇子が次の大きな事件である「入鹿暗殺」に関わったとする記述は一切ありません。
しかし、山背大兄王が襲撃されてから1か月後、中臣鎌足が軽皇子を訪ねたという記述があります。
日本書記には、この訪ねたとされている場面で、鎌足は、軽皇子に意味慎重なことばを投げかけたと記述されています。
「軽皇子が天下の王となるのに誰が逆らえましょう。」この日本書記の記述は、軽皇子と鎌足の関係とを物語っていると言えます。
★中臣鎌足と曽我入鹿との関係
それでは、次に、鎌足は入鹿について、どのような感情をもっていたのでしょうか?
これは、結論から言うと、恨んでいました。その理由は、新宮であった中臣家は、代々、祭事を携わってきました。
しかし、仏教を報じた入鹿と対立するようになってきて、中臣家には高い地位は与えられなくなっていました。
日本書記に記述されている鎌足の言葉としては、「入鹿は、天皇と臣下の間の秩序を破り、国家を我がものとする野望を抱いている。」となっていました。
したがって、鎌足は、打倒入鹿と目指し、軽皇子に近づいたと考えられます。
★飛鳥京建設を目指していた皇極天皇の蘇我入鹿への思い
一方、皇極天皇は、飛鳥京の建設に邁進するために、労働力を集める必要がありました。
このため、「東は遠江国、西は安芸国に限って宮廷を造営する丁を徴発せよ。」と命令したと日本書記には記述されています。
しかし、思うように労働力の動員は難しい状況でした。
この理由として、当時の日本は、豪族が各地を支配しており、天皇と言えども豪族の同意がなければ民の動員は難しい状況でした。
そして、この時、最も豪族の中で力を持っていた入鹿は、天皇の宮廷を建設することには協力せず、更に、自分の従兄弟の古人皇子が太子になったことで、「甘橿岡(あまがしのおか)」という天皇の宮廷を見下ろす場所に、先に大邸宅を築いてしまいました。
その反対に、入鹿が飛鳥京の建設に活躍したという記述は一切ありません。
皇極天皇は、その点、入鹿に当てを外された形となってしまいました。
そして、更に、入鹿は、屋敷が完成すると、その大邸宅の門を「谷宮門(はざまのみかど)」と名付け、自分の子供たちを「王子(みこ)」と呼んだといいます。
ちなみに「みかど」とは宮廷の門のことを意味し、「みこ」とは皇族の呼称です。
こうした入鹿の振る舞いが、皇極天皇の怒りを買い、皇極天皇の気持ちが軽皇子と中臣鎌足に優位に働いて行ったと考えられます。
★軽皇子の妙案
軽皇子は、皇極天皇が入鹿に怒りを持っていることを知り、改革を実行するという手土産を持って現れます。
そして、その当時、豪族が支配していた土地と民衆を、天皇が豪族を介さないで直接支配できるという改革制度、いわゆる「公地公民」を提案します。
この制度によれば、大規模な都の建設を行うことができますので、これに大いに心を動かされた皇極天皇が、軽皇子の提案に賛成したものと考えられます。
★曽我入鹿暗殺
日本書記の記述には、暗殺は朝鮮半島の3つの国からの貢ぎ物が届いて、天皇に奉納される儀式の最中であったとされています。
その場に立ち会ったのは、皇極天皇、入鹿、古人皇子の3名と天皇の貢ぎ物を取扱う、石川麻呂と記述されています。
この石川麻呂は、中臣鎌足の仲介で軽皇子と組んだ人物でした。
儀式の最中、中臣鎌足と中大兄皇子は、暗殺の実行者として選ばれた子麻呂、網田と一緒に、物陰に隠れ、身を潜めます。
そして、儀式が始まり、石川麻呂が貢ぎ物の内容を読み上げます、ここで、予定ですと暗殺の実行者の子麻呂、網田が飛び出て暗殺を行う予定でしたが、二人が怖じ気づいて動かなくなってしまったため、中大兄皇子が、急遽、飛び出て、入鹿を斬りました。
日本書記には、最期に、入鹿は、皇極天皇にこのように聞いたと言われています「やつこ罪を知らず(私に何の罪があるのでしょうか?)」
皇極天皇は、この事件に関わったものを一切処罰しなかったということを考慮すると、ある意味、この暗殺の首謀者は皇極天皇と言えなくもありません。
★飛鳥京建設という観点から見た蘇我入鹿の暗殺
このように、入鹿の暗殺事件は、飛鳥京の都市建設という観点から見ていくと、非常に分かりやすくなってくると思われます。
当時、飛鳥京建設を切望していた皇極天皇と次期天皇の座を狙う軽皇子の利害が一致して、押し進められていったものでした。
そして、入鹿が仏教を推し進めることによって軽視されていた中臣鎌足も、この企てに参加していったものと考えられます。
しかし、日本書記には、最後は中大兄皇子が入鹿を斬ったと記述されていますが、専門家の意見ではその説は低く、これは、日本書記の編纂者が中大兄皇子の権威を高めるために、犯行を正当化するために記述したものと考えられています。
入鹿暗殺から2日後、皇極天皇は引退し、軽皇子が即位し、孝徳天皇となります。
中大兄皇子は、その後継者である太子となりました。
★孝徳天皇による大化の改新
孝徳天皇(軽皇子)は、即位後、元号を大化に改め、日本の律令体制の礎となった改新の尊の理を発布します。
そして、その第1条は「大臣以下、豪族、村長たちは民をすべて差し出すように」という公地公民を謳ったものでした。
この孝徳天皇(軽皇子)が、宣言した公地公民こそ、飛鳥京建設を目指す皇極天皇が待ち望んだものでした。
この入鹿暗殺の背景としては、入鹿が曽我家一門の繁栄だけを考慮していたという横暴さはあったと言えます。
しかし、それだけではなく、以上のように飛鳥京建設ということを背景に、軽皇子の天皇への後継者争いの犠牲になったということができます。
入鹿暗殺をきっかけにして、公地公民の制度が出来上がり、天皇を中心とした中央集権体制が出来上がっていくという意味で、日本の歴史上重要な位置付けだと言われています。
★まとめ
・曽我入鹿がの暗殺された原因は、本人が天皇にとって代ろうとした横柄さに起因するものではない。
・そもそも、入鹿の人間性を語る上でよく言われる、「山背大兄王襲撃」は皇極天皇が入鹿に命じたものである。
・そして、この「山背大兄王襲撃」によって、天皇の後継者争いから完全に脱落した軽皇子が首謀として企てたものである。
・さらに、中臣鎌足は、入鹿によって高い地位が与えられておらず、軽皇子と手を組んだ。
・そして、軽皇子は、入鹿暗殺を認めてもらうため、ときの皇極天皇に、飛鳥京建設を成し遂げるための「公地公民」を謳った律令体制を提案した。
・これによって、暗殺が成し遂げられ、大化の改新が行われた。