皇極四年(645年)六月十二日、当時、朝廷で大きな権力をもっていた蘇我人鹿が殺害されました。
この殺害を実行したのは、皇極天皇の子である中大兄皇子と朝廷の祭祀をつかさどる中臣鎌足でした。
そして、息子を殺された蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷も、翌日に自分の屋敷に火を放って自害しました。
これらの事件は、「乙巳の変」と呼ばれています。
その後、女帝である皇極天皇が弟の軽皇子に天皇の座を譲ると、軽皇子は孝徳天皇として即位します。
そして、ここで皇太子となった中大兄皇子は、中臣鎌足とともに、中国の制度を取り入れた新体制作りに着手していきました。
これが、いわゆる「大化の改新」の一連の流れです。
しかし、ここで大きな疑問が湧きます。
なぜ、中大兄皇子は自ら天皇とならず、叔父である軽皇子が天皇となったのでしょうか?
また、なぜ皇極天皇は、「乙巳の変」後、急に天皇の座を譲ろうと考えたのでしょうか?
ここで考えられるのが、実は、蘇我入鹿殺害の本当の首謀者は軽皇子であり、中大兄皇子と中臣鎌足は単なる実行犯にすぎなかったという説です。
今回は、この内容について御案内していきます。
★軽皇子首謀説の概要
大化の改新前、皇極天皇の後継者候補は、中大兄皇子と古人大兄皇子の二人と言われていました。
中大兄皇子は、舒明天皇と宝皇女(のちの皇極天皇)との間に生まれた皇子でした。
また、古人大兄皇子は、舒明天皇と蘇我馬子の娘との間に生まれた皇子でした。
通常、血統的には中大兄皇子が皇位を継承するはずですが、朝廷随一の権力者である蘇我入鹿は身内である古人大兄皇子を次期天皇に推していました。
一方、有力な後継者候補の二人に比べ、やや見劣りするのが第3候補と言われていた軽皇子でした。
軽皇子は皇極天皇の弟でしたが、古人大兄皇子や中大兄皇子と比べると、後継者としては可能性の低い存在でした。
つまり、軽皇子が天皇になるには、古人大兄皇子と中大兄皇子を押し退ける必要がありました。
このため、まず軽皇子は、政権を裏から支えている権力者、つまり蘇我人鹿を排除します。
そして、軽皇子にとって姉に当たる皇極天皇は、蘇我人鹿が首謀しているからこそ政務が成り立っている女帝であるため、蘇我入鹿が亡くなってしまった直後に、自分への譲位を迫ろうと考えました。
これが、一発逆転を狙った軽皇子首謀者説のあらましです。
★軽皇子が天皇に即位したという意味は
軽皇子が一連の黒幕なのか否かは不明ですが、実際として、この事件の後、皇極天皇から軽皇子への皇位継承は実にスムーズに行なわれました。
しかし、普通に考えれば、有力な皇位継承候補者であり、クーデターの立役者でもある中大兄皇子が即位すべきだと思われます。
だけれども、結果からみて、軽皇子が即位したことに、大きな意味があるのではないでしょうか?
このくだりについて「日本書紀」には、「皇極天皇が突如、中大兄皇子に皇位を譲るといい出したが、中大兄皇子は辞退した。軽皇子も辞退して古人大兄皇子を推挙したが、古人大兄皇子も断った」とあります。
しかし、「日本書記」のこの記述は、事実ではないとみている専門家は多いところです。
ちなみに、もう一人の有力候補者であつた古人大兄皇子は、命の危機を感じて出家してしまったと言われています。
★大化の改新とは単なる副産物なのか?
最後になりますが、もし仮に軽皇子黒幕説が真実であるならば、中大兄皇子は単なる実行犯の一人に過ぎなかったことになってしまいます。
そうすると、「大化の改新」というものは、蘇我入鹿の無節操な行為を止めさせ、かつ新しい日本を作るという政治的な思想をもって中大兄皇子と中臣鎌足の謀略で行ったものではなく、単に皇族同士による天皇の後継者争いから生じた産物になってしまいますね。