天球院は腕力も性格も、とても男まさりな女性で有名な人です。
しかし、腕力は男まさりでも根は女性です。
だから、こんな女性を怒らせると夫はとんでもない目にあってしまいます。
天球院は、自分のことを気にかけてくれない夫・家盛の腕をつかみ、寝所までに連れていきます。夫・家盛は全く抵抗できませんでした。
今回は、この天球院について、御案内します。
目次
★天球院の生い立ち
信長の乳母養徳院の息子・池田信輝(恒興)には側室が産んだ娘で、腕っ節が強く、気丈な女性が何人かいたようです。
「寛政重修諸家譜」では、信輝の三女(輝政の妹)で、「母は某氏」としか記されていませんが、山崎左馬允家盛の妻になった天球院も、なかなか向う気が強い女性でした。
彼女は、晩年の法号を天球院とされていますが、俗名は不明です。
★山崎氏の立場
山崎氏は、近江の豪族で、織田信長の傘下となって以降、城主となっています。
そして、秀吉のもとでは、山崎片家が当主のときに、摂津三田(兵庫県三田市)に二万三千石を給されました。
そして、その子・山崎家盛のときには、関ケ原の戦いで、石田方に味方していると思いきや、密かに徳川方に与して、幕藩体制下での大名の地位を築きました。
天球院は、この山崎家盛の正室でした。
★関ヶ原の戦いの前に
山崎家盛と天球院の夫婦は、この当時の大名がそうであったように、大坂屋敷に住んでいました。
天球院は、嫁いだときから男も顔負けの怪力の持ち主で、性格も気丈でした。
その上に、天球院は、顔もスタイルも人並み以下だとも言われていました。
夫・家盛は妾をつくりますが、天球院はそれを特に気にかけるようでもありませんでした。
そして、時代が流れ、太閤秀吉が亡くなり、世の中がざわめき始めます。
そのざわめきの中心には、次の天下を虎視眈々と狙う徳川家康がいました。
★夫・家盛は密かに家康方につく
時代の流れは、関ケ原の戦いに向かっていきました。
天球院の実家である池田家では、兄弟の輝政・長吉らが、会津の上杉氏を討とうとする家康に従い、関東へ向かいます。
これに対し夫・家盛は、三成に味方して大坂におり、淀川の新関を守備していました。
しかしながら、それはうわべだけのことで、実は夫・家盛は池田氏と心をひとつにしており、家康に内通していました。
★家康に味方した諸侯の悩みのタネ
家康に味方した諸将の悩みのタネは、妻子を大坂に残していることでした。
三成方は、家康方に味方する大名の妻たちを大坂城に収容し、人質にしようとしました。
このため、大坂屋敷の各大名家では、いかに人質を逃れるかで必死になっていました。
黒田長政の妻と母(如水の妻)は、商家の女に化け、俵に入って屋敷をぬけ出し、商家の床下に潜み、船を待って脱出しました。
また、加藤清正の妻は重病人のふりをして布団にくるまり、駕籠で大坂を逃がれました。
池田家では、これはとても深刻な問題でした。
というのは、当主・池田輝政の妻・督姫は、家康の義理の娘に当たり、嫡子・忠継は家康の外孫に当たりました。
このため、大坂方の池田家への監視の目はとても厳しいものがありました。
★池田家の窮地を救った夫・家盛
この妻の実家である池田家の窮地に助け船を出したのが夫・家盛でした。
夫・家盛は、表向きが大坂方であることを最大限に利用しました。
夫・家盛は奉行に督姫は病気と報告して、自領の三田へ連れて行き、有馬の温泉につからせたいと申し出ました。
これは、もちろん仮病でした。
こんなタイミングに病気とは三成側も疑わしく思ったものの、味方である夫・家盛の申し出を拒否することはできず、嫡子・忠継を大坂に残すことを条件に許可が出ました。
そして、夫・家盛は、督姫が乗る輿の奥に、幼い嫡子・忠継を隠して、無事に自領の三田に逃がすことができました。
★天球院の怒り
このように、見事な手はずで池田家の督姫親子を逃した夫・家盛ですが、ここで妻・天球院の怒りはピークに達しました。
というのは、夫・家盛は、の督姫を逃してやることばかりに苦慮する一方で、自分の妻である天球院を逃す手はずを整えるどころか、大坂城に人質として差し出すように準備をしているではありませんか。
そして、天球院は、夫は自分が大坂城に人質となっている間に、囲った妾と仲良くすると思うと、更に怒りは爆発しました。
★天球院が夫・家盛に対する行動
天球院のこのときの怒りは、「池田家履歴略記」に次のように記載されています。
「常日頃は、私のことを全然気にもかけてくれない。
だけど、人質にだけ出すのはどういうことなのでしょうか。
あなたは、普段、妾のところばかりに行ってるのだから、彼女を人質に出すべきではないでしょうか。
もし、これに従えないというのであれば、あなたと一緒に死にます。
と言って夫・家盛の手を把み、寝所に入っていきました。
天球院の腕力は、男と言えども敵わず、夫・家盛は妻の言うことを聞くしかありませんでした。」
★それでも怒りが収まらない天球院
しかし、関ヶ原の戦いの終了後、天球院は夫・家盛への怒りを抑え切れず、離縁し、実家の池田家に帰ってしまいました。
天球院には子供はおらず、山崎家の嫡子・家治は側室が生んだ子供でした。
一方で、池田家の方も、離婚の原因が家康の養女・督姫を逃してくれたことなので、何ともしがたい状況となりました。
★何とか婚姻関係を保つ池田家と山崎家
しかしながら、池田家においても、山崎家を出てきた天球院を戻す訳にもいきません。だけど、このままでは、池田家と山崎家の婚姻関係が無くなってしまいます。
このため、池田輝政は、山崎家の嫡子・家治に自分の養女を嫁がせました。
そして、一方で家康は、家盛が督姫母子を保護したことに感謝し、山崎氏に七千石を加増して三万石とし、徳川幕府のもとでの基盤を築いたのでした。
その後、山崎家治は因幡若桜、備中成町、肥後東竪と小城の城主を転々としながら、寛永十八年(1641 年)に、石高五万石余で丸亀城の城主となりました。
また、出戻ってきた天球院は、池田輝政の弟の長吉が鳥取城に引き取りました。
その鳥取城に三層櫓をもつ天球丸がありました。
それは、出家して天球院が住んだことで付いた曲輪名でした。
★最後に
天球院は、老いてもなかなかの女丈夫でした。そして、相変わらず性格もサバサバしていましたが、こんなこともありました。
輝政の孫の代、中川糸(督姫を妻にするため離婚させられた)が産んだ利隆の子・光政と、督姫の子・忠雄(兄忠継の死で跡を継ぐ)との本家争いが生じました。
「妙心寺史」によれば、天球院は、督姫の血を引いた忠雄に味方せず、弱い立場であった光政を全面的に擁護してはばからなかったそうです。
しかし、この跡目争いに光政は敗れて、忠雄が岡山城主となり、九歳の光政は鳥取城主となりました。
だが、その後、光政は、忠雄が亡くなったことによって岡山城主となり、名君と称えられるようになりました。
そして、光政は、この大叔母天球院の恩を忘れませんでした。
寛永十三年(一六三六)十二月二十七日、天球院は京都で亡くなりますが、光政は京都・妙心寺に天球院を建てて、その菩提を手厚く弔ったのでした。