上杉謙信とは、戦の神のような武将として、現代でも崇められている人物です。
謙信は、生涯八十数度戦ったといわれ、その作戦は、春日山城の毘沙門堂に一人でこもって考えました。
生涯酒は愛したが、女を寄せつけず、義を重んじた不犯の武将といわれています。
そして、上杉謙信の母である虎御前は、熱心な観音菩薩の信者で、謙信は母・虎御前から少年時代に、仏の道を聞き、寺での修行をしました。
謙信の毘沙門天信仰と不犯の思想は、この少年時代の信仰深かった母・虎御前の影響によるところが大きいと思われます。
ちなみに、虎御前の本名は不明です。また、虎御前の名も、謙信の幼名が景虎であったことに由来して、後世にそのように呼ばれるようになったと言われています。
なお、尼になった際には「青岩院」を号しました。
今回は、この虎御前と幼き頃からの謙信のお話をご紹介します。
目次
★幼き頃の上杉謙信
謙信は享禄三年(1530年)に春日山城で生まれました。
母・虎御前は、謙信が7歳になると、曹洞宗の林泉寺に入れました。
謙信は、14歳まで名僧の天室光育から教育を受けて、禅の修行だけでなく、学問から武芸まで学びました。
このため、謙信は文武両道に優れ、しかも城内に寺を建て、毘沙門天を信仰し、その神意を己の意志として、戦いを重ねる特異な武将になってゆくのでした。
また、虎御前は、謙信のほかに、謙信の兄・晴景と姉・綾の方を生みました。
★上杉謙信の父・長尾為景は下克上の申し子
謙信の父、つまり虎御前の夫である長尾為景には、側室のいた記録はなく、虎御前は唯一の妻でした。
そして、父・為景は、戦国時代を下剋上で成り上がっていきました。
父・為景は、越後の守護代でしたが、主君である守護の上杉房能を殺します。
これを怒った上杉房能の兄で関東管領の上杉顕定は、関東軍を率いて為景を攻めました。
しかし、戦上手の父・為景は、関東軍も敗走させて、関東管領の上杉顕定を討ち取ってしまいました。
この結果、「為景は家来の身でありながら、二代の主人を殺害した」と言われ評判を落としたため、守護であった上杉房能の従兄弟の上杉定実を守護に擁立して、越後の実権を掌握しました。
このように、為景は、百余回の戦いに出陣した戦好き・戦上手であり、その血を受け継いだ謙信は、一間(約一・ハメートル)四方の模型をつくつて、城攻め遊びをするのが大好きな少年でした。
その一方で、虎御前からは、物心つくころより、仏の功徳を聞かされ、仏門の教えを人生の根本にすえるようになりました。
しかし、一方で、為景にも大きな障壁はありました。
それは、長尾氏は同族同士の仲が悪く、同族同志の越後内での抗争は絶え間ないことでした。
そして、その抗争は、為景が越後内の実権を握っても何も変わりませんでした。
ちなみに、長尾氏は、本家は春日山城にあって為景の府中長尾でした。
このほかに、現在の長岡市を基盤とする栖吉城の古志長尾(栖吉長尾とも)と、南魚沼市の坂戸城を本拠とする上田長尾があり、この三つの長尾氏が拮抗する形で、抗争を繰り返していたのでした。
なお、虎御前は古志長尾の長尾房景の娘で、府中長尾との同盟の緊密化のため、府中長尾の為景に嫁いだのでした。
この結婚で、府中長尾と古志長尾の関係は良化しましたが、上田長尾が孤立する形で関係は悪化していきました。
★上杉謙信の父・長尾為景の死
戦上手で、下克上の申し子と言われた謙信の父・為景ですが、謙信が7歳のときに突然に亡くなってしまいます。天文五年 (1536年)12月のことでした。
このため、大黒柱を失った春日山城は、一気に不安定な風が吹きました。
幼い謙信は、小さな身体に甲冑をまとい葬儀に参列しなければならないほどでした。
そして、府中長尾家は、謙信の兄・晴景が家督を継ぎましたが、病弱な兄・晴景に公然と反旗をひるがえす家臣もおり、また、関係が悪くなっていた上田長尾がこれを好機とばかりに攻勢に出てきました。
★春日山城から逃げる虎御前と謙信
虎御前は、上田長尾の攻勢に、春日山城で暮らすことができず、実家の梱吉城に戻りました。
そして、栖吉城から信濃川を渡って14キロほど東にある五庵寺(長岡市雲出町)に尼となり、隠れ住みました。
謙信もまた、春日山城で暮らすことができず、栃尾城(長岡市)で母の実家である古志長尾で逃げ込み、ここで暮らしました。
★謙信の旗揚げ
そして時が経過し、謙信は、19歳となり、古志長尾の全面協力を受けて旗揚げします。
その結果、春日山城を取り戻し、長尾家本家を相続して越後を統一するのでした。
こうして、虎御前は謙信の力によって、夫・為景と過ごした春日山城に帰ることができました。
★虎御前の死亡
その後、虎御前が死んだのは、謙信39歳の永禄11年(1568年)5月のことでした。
享年57歳でした。
虎御前の墓は、春日山城が影を落とす貯水池を越えた向かい、宮野尾の集落の杉木立だけがつづく中にあります。
信仰心の厚い謙信のことなので、母のお墓に手を合わせることも多かったと思われます。