元寇って、皆さん学校で、どんな風に習いましたか?
私は、おおよそ、次のようなところです。
1 その当時、中国を支配していた元が日本に攻めてきた。
2 文永の役、弘安の役と、2回攻めてきた。
3 元は、強く鎌倉幕府は苦戦した。
4 しかし、2回とも、台風が来て、日本は助かった、
5 以来、これを神風という。
だいたいこんな感じでしょうか?
しかし、最近の調べでは、
1 1回目の文永の役において、元は1週間程度日本に滞在して、攻撃し続けていた。
2 だけど、台風が来る前に、元は帰って行った。
3 次に、6年後、弘安の役では、元は海岸に張り巡らされた防塁で上陸できず。
4 そして、夜になると鎌倉幕府が船上に仕掛けるゲリラ戦が効果的だった。
5 上陸できない元は、志賀島に上陸したものの、元側は船中泊が3か月としなって、繊維喪失。
6 そこで、台風が来て、中国に帰っていった。
こんな風に、なっているそうです。
それでは、今回は、元寇について、御案内していきます。
★文永の役について
1回目の文禄の役では、約900隻で約26,000人もの兵士が日本へやってきました。
900隻を超える艦隊が、博多湾を埋め尽くすとなると、凄い光景が目に浮かびますね。。
そして、戦いが始まります。
一騎打ち型の日本の戦闘と違い、元は集団型の戦闘を展開します。
つまり、日本の兵が、自らの名前を名乗って一騎打ちを挑もうとしているうちに、次々と相手側に捉えられ、戦況は不利になっていきました。
しかし、日本も戦い方を変え、次第に盛り返していきます。
苦戦したのは、相手の手りゅう弾のような「てつはう」と呼ばれる爆撃弾です。
この「てつはう」の中には、火薬だけでなく、鉄や陶器の破片がつめられており、爆発して周囲の人に強い殺傷能力を持っていました。
また、弓矢も、刃先に毒が塗られており、殺傷能力が高かったそうです。
このような戦いで、戦況は日本が不利。
当初は、博多湾で攻防をしていましたが、太宰府当たりまで攻め込まれるようになってきました。
一方、日本兵も弓矢で対抗します。
元軍も弓矢はあるものの、日本のように木材が豊富ではなく、長い弓矢は持っておらず、日本の長くて破壊力のある弓矢は効果的な攻撃となりました。
元軍の思惑は、もっと簡単に日本を制圧できると考えていた様子でした。
しかし、思いのほか、鎌倉幕府の抵抗が厳しかったようです。
そして、一週間程度攻撃してきたが、今後、自国から援軍の予定はありません。
季節は11月、次第に海を荒れ始め、このままだと、いずれ自軍が不利になることを察し、博多湾に停泊していた船に戻り、帰還していきました。
★弘安の役
次に、2回目の弘安の役では、鎌倉幕府は、北条時宗を中心に守りを固め、敵が海から上陸できないように高さ3メートルの大きな策を海の周りに張り巡らせます。
それは、20㎞にも及ぶのですから、相当に準備に時間をかけたと言える。
弘安の役では、元軍は、確実に日本を支配つもりで来ており、4000艙の船で、14万でやってきました。
しかし、博多湾には、大きな柵が張り巡らされ、上陸できない。
このため、博多湾にとどまっていると、夜になると、日本兵の夜襲を受け、被害が絶えません。
このため、上陸先を変えようし、志賀島まで、移動しました。、
しかし、その行動を読んでいた幕府軍は、それを待ち構え、夜な夜なにゲリラ戦を展開します。
元々、元の船は、突貫工事的に作られたもので、耐久性が悪く、ゲリラの攻撃で相当のダメージを受けます。
そして、この辺りで、元の兵士たちは、船中泊が3か月となり、船酔いが日常的となり士気が低下し始めます。
また、日本のやぶ蚊に相当苦労した様子です。
乾燥した大陸には、余りやぶ蚊はおらず、元軍兵士は夜の睡眠が十分にとれず、体調不良者が続出しました。
そして、このタイミングで、大きな台風が九州に上陸します。
このため、元の船は、大きなダメージを受けることとなり、帰還を余儀なくされたのでした。
★まとめ
今回、元寇を色々と調べました。諸説あって、色々と難しいですね。
元寇は、その当時の日本人に大きな影響を与えただけでなく、その後の日本人が、「我々は神に守られている。」という価値観をもたらし、誇り高く生きるというということを教えてくれたとおもわれます。
幕末から明治維新にかけて、欧米各国が、アジアの国々を植民地化する中、日本人は「俺たちは違う」という認識があったのも、この元寇にゆらいするところが大きいのではないでしょうか。
その意味で、元寇というのは、現代の日本の発展の基礎になっているものと思われて仕方ありません。