合戦のお話

賤ヶ岳の合戦でみせた秀吉と前田利家の逃亡?

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★賤ヶ岳の合戦における合戦の意義

 賤ヶ岳の合戦とは、羽柴秀吉が織田信長の亡き後、天下統一を果たそうとするために、とても大きな位置づけの合戦だと言われています。

 

 秀吉の前に立ちはだかったのは柴田勝家。勝家は、織田家の筆頭家老で、秀吉を 成り上がりものと、軽く見ていました。

 そして、両軍が対峙する中、美濃で信長の三男・織田信孝が反秀吉を掲げて挙兵します。

 それに対して、一旦、大垣城まで主力軍を引き下げて勝家の攻撃を誘い出す秀吉。

 勝家は、何か嫌な予感を感じつつも、遂に、手薄となった賤ヶ岳の秀吉軍を攻めたことで、賤ヶ岳の戦いは秀吉に軍配が上がってしまいます。

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 最後に、敗れた勝家は、亡き信長の妹・お市の方と自害し、この合戦は終わります。

 今回は、秀吉の見事な駆け引きと、勝家の見事な武士の生き様を御案内します。

 

★清州会議ので秀吉の策略

 天正10年6月2日、本能寺の変により、信長が急死します。

 この悲報を受け、秀吉は毛利軍と休戦協定を結ぶとともに、直ちに京に引き返します。

 そして、本能寺の変から僅か11日後、 主君の仇である明智光秀を山崎の合戦で打ち破りました。

 秀吉は、信長の家臣の中で誰よりも早く主君の仇を討りましたので、その功績は明らかでした。

 その後、織田家の筆頭家老の柴田勝家から連絡を受けます。

 内容は、今後の織田家の跡取りなどを決めるので、清洲城にくるようにとのものでした。

 

 天正10年6月27日、いわゆる清州会議のため、主だった織田家の家臣団が清州城に集つめられます。

 まずは、信長の後継者争いについて、話しが行われました。

 勝家は、「後継者は、三男・信孝殿にすべき。ご評判は大変なものである。」と、勝家と親しい仲の信孝を推薦しました

 これに対して秀吉は、「仰せはごもっともですが、ここは筋目を立てて三法師様を守りたて申すべきであろう。」と、秀吉が推薦したのは、長男の子・三法師(2歳)でした。

 

 秀吉は、 三法師の守り役となって実権を握ろうと考えていました。

 これに対して、勝家は譲歩しません。両者は真っ向から対立しました。

 しかし、その時、信長の重臣の一人、丹羽長秀が、意見をいいます。

 「柴田殿、秀吉の申す事の方が筋目が正しいですぞ。そもそも光秀を討ったのは秀吉ではござらぬか。」

 

 なぜ、丹羽長秀は秀吉に味方したのか?

 実は、丹羽長秀は、清州会議で話がうまくまとまった場合に秀吉から近江の国の西半分をもらう約束をしていたのでした。

 秀吉が得意とする調略が功をそうしました。

 

 次に、領地分配の話なりました。後継者争いに負けた勝家は、巻き返しに出ました

 秀吉の居城の長浜城と、北近江の領地を自分の甥の佐久間盛政に譲れという無理難題を言いだしました。 

 

 勝家の理由は、信長様の亡き後は、自分が越前から長浜を通り、京で仕事をすることが多くなるので、このため途中の宿とするため長浜を譲ってもらいたい、というものでした。

 

 しかし、長浜は、長年秀吉が精魂を込めて築いてきた領地です。

 勝家は、秀吉は断るに違いないと読んでいました。そして、それをきっかけに、秀吉を斬って捨てようと思っていました。

 実際、隣の部屋で勝家の甥・佐久間盛政が刀を構えて控えていました

 

 ところが秀吉は、この申し出をあっさりと受けます

 しかし、条件として、お譲りするのは盛政殿ではなく、勝家殿の養子で嫡男の柴田勝豊殿にお譲りしたい、それが筋である、というのでした。

 つまり、秀吉はここでも 筋目を持ち出し、勝家の可愛がる甥の盛政ではなく、養子で嫡男の勝豊を挙げてきました。

 

★三法師のお披露目会

 清州会議から4日後、秀吉は、三法師のお披露目会を行いました

 織田家の重臣が集まるなか、秀吉は三法師を抱いて登場しました。

 その三法師の登場に対して、深々と頭を下げる重臣たち、 それは、あたかも重臣たちが、秀吉に対して頭を下げているようでもありました。

 このお披露目会で、秀吉は、信長の実質的な後継者は自分であることを天下に示したと言われています。

 

★柴田勝家とお市の方の結婚

 一方で、筆頭家老である勝家も、このまま黙っている訳には行きません。

 勝家は、織田家の家臣団で人気の高かった、亡き信長の妹・お市の方と祝言を挙げます。

 これは、秀吉が、三法師を担ぎ出し、実質的に織田家を乗っ取るのではないかとの危惧から、勝家が織田家と婚姻関係を結ぶことにより、けん制効果を働かせたものだと言われています。

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★長浜城の落城

 このように、秀吉と勝家の間で緊張感が走り、いずれ対決は避けられない状況になってきた天正10年12月、秀吉は、先手を取って動きます。

 秀吉は、勝家に譲ったはずの長浜城を突如包囲しました

 長浜の城主・柴田勝家の養子・勝豊は、戦わずして秀吉に城を明け渡してしまいました。

 

 これは、秀吉の読み切った作戦でした。

 実は、勝家と養子の勝豊は不仲でした。それを知っていた秀吉は長浜城をわざと勝豊に譲り、その後、自分に味方するように裏で働きかけていたのでした。

 清州会議でせっかく手にした長浜城は、直ぐに秀吉に取り返えされてしまいました。

 勝家は、激怒しますが、季節は12月、勝家が住む雪の多い北陸では、軍勢を動かすことはできません

 勝家は「秀吉を合戦で破ることは卵を割ることよりもたやすいのに」と呟いたと言われています

 

★柴田勝家が足利義昭に宛てた書状

 養子で嫡男の勝豊が秀吉に寝返り、長浜城は秀吉に奪い返され、勝家は、雪に鎖された長浜で焦っていましたが、雪で軍政を動かすことはできませんでした。

 

  しかし、勝家は、信長が追放した室町幕府の将軍足利義昭に書状を送りました。

  足利義昭は、その頃、中国の毛利氏に身を寄せていましたが、勝家は義昭に「京に入る御入洛に尽力いたしましょう。」と進言します。

 これは、勝家は室町幕府という古い権威を持ち出し諸大名に号令をかけることにより、秀吉という新しい勢力に対抗しようとしたものでした。

 

★柴田勝家の出陣と持久戦の開始

 天正11年2月28日、勝家は、雪解けを待たずして、3万の軍勢とともに越前を出発します

 この情報を受け、秀吉も直ちに出陣します

 

 両軍が対峙したのは、現在の滋賀県の賤ヶ岳でした

 秀吉は、織田家最強と言われる勝家軍と正面からぶつかるのは得策ではないと考え、陣中に強固な柵を作り、徹底的に防御を固めます。

 そして付近の山に、10日ほどで10か所以上の大きな砦を築き、持久戦に持ち込む構えをみせました。

 正面突破が得意な勝家軍が、持久戦に苛立ち、強引に正面突破を図ってくれば、柵で食い止めて撃破するというのが、秀吉の作戦でした

 このため、秀吉は、相手が正面突破を図ってくるまで、柵の外には鉄砲を撃つことはもちろん、一人も出てはならない、と指令しました。

 

 一方、勝家、思いもかけぬ持久戦に引きずり込まれ焦ります、イライラが続くこと2週間、勝家の家臣団にも苛立ちが目立ち始めます。

 このため、1か月以上を経過したある日、勝家はなんとか活路を見出そうと、自ら軍勢を率いて、正面突破を図ります。

 

 待ち構えていた秀吉軍は、柵から大量の鉄砲で応戦し、正面突破してくる勝家軍を次々と倒していきます

 勝家はまんまと秀吉の作戦にハマったかに見えましたが、勝家もここは戦巧者、このままでは状況が悪いことを直ぐに察知して、大きな被害を出す前にあっさりと退却してしました。

 

★織田信孝の挙兵で秀吉が謎の退却

 その後、再び持久戦になり両軍の対峙が続いたある日、秀吉は、信長の三男・織田信孝が美濃で挙兵したことを知ります。

 美濃は秀吉軍の背後となるため、攻め込まれてしまうと、秀吉は、北に勝家、南に信孝と挟み撃ちにあってしまうことになります。

 

 この挙兵に対抗するため、秀吉は自らが2万の主力軍を率いて、美濃へ進軍します。

 このため、賤ヶ岳の 秀吉軍は少ない人数で対峙することになってしまいました。

 これは、敵前で、背を向け、逃げるような行動でした。

 勝家軍には、すぐに秀吉軍の主力が美濃に向かったという情報がもたらされ、陣内では一気に攻めるべきだと声が高まりますが、勝家は秀吉が何か策を持ってるのではないかと慎重でした。

 

 一方、秀吉は、美濃に向かう途中、揖斐川の氾濫に会ってしまい、足止めを食らって大垣城に入りました。

 実は、秀吉は、賤ヶ岳で勝家が攻撃を仕掛けてくることを待っていました

 そして、勝家軍が攻撃をしかけてきたところで、秀吉が主力軍を率いて大返しで戻れば、一気に勝利を手にすることができると考えていました。

 

★柴田義家の攻撃の決断

 秀吉が大垣城に入った2日後、佐久間盛政は総攻撃をかけるべきだと勝家に進言し、進軍に慎重だった勝家が折れて、攻撃を許可します。

 ただし、条件として、奇襲に成功したら、深追いはせず、直ぐに撤退せよというものでした。

 

 天正11年4月20日深夜2時に、勝家軍は、主力の1万の攻撃隊が出発し、夜明けとともに砦を責め立てて奪います。

 佐久間盛政は、攻撃の手を緩めず、秀吉軍の陣中深くにまで攻撃を行って、秀吉軍を壊滅させてしまいそうな勢いで突き進んでいきました。

 

 一方、秀吉は、勝家軍が攻撃してきたことを知り、「我勝てり。勝家の命、我が掌中にあり」と叫び、直ちに1万5千人の主力軍と賤ヶ岳に向かいます

 秀吉は、「炊き出しをし、食料を用意せよ。街道には松明を掲げ進軍を助けよ。」と命令を下し、午後9時に出発してから、わずか5時間後には賤ヶ岳に到着していました。

 ちなみに、大垣から賤ヶ岳までは52 km、当時の常識ではどんなに急いでも12時間以上はかかる距離でした 。

 勝家軍の攻撃隊は、秀吉軍の主力軍がこんなに早く戻ってくることはないと考えていましたので、秀吉軍の陣中深い場所にいました。

 ところが午前2時、戻ってきた秀吉軍の総攻撃が始まります。不意を打たれた勝家軍は、総崩れとなり、勝家軍はその主力を失ってしまいました。

 

 この勝敗は、わずか半日で決しました

 

★柴田勝家がお市の方と自害

 秀吉軍の主力軍から総攻撃を受けた後、勝家は軍を立て直そうと尽力しますが、勝家軍からは逃亡者が相次ぎ、それも諦めます。

 このため、勝家はわずか100人の手勢とともに自らの居城北ノ庄城に戻りました。

 

 天正11年4月23日深夜、賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は妻のお市の方とともに最後の宴を開いていますが、城の外には秀吉の軍勢がひしめいています

 そして、死の覚悟した勝家はお市の方に、「そなたは城から落ちのびよ」と進言します。

 しかしお市の方は頑としてこれを拒否します。

 

 一方、陣中にいた秀吉は、勝家に降伏を呼びかけ、攻撃の手を緩めていました。

 秀吉はお市の方をお助けようとしていましたが、城門があり、現れたのは3人の娘だけで、お市の方はいませんでした。

 

 その後、秀吉は、意を決し、最後の攻撃を命じます。

 攻撃が始まって間もなく、本丸から火の手が上がりました、燃え盛る炎の中、勝家とお市の方の自害でした。

 

★お市の方の忘れ形見の3人の娘

 落城目前の北ノ庄城から抜け出したお市の方の娘3人は、秀吉が引き取り大切に育てられます。

 その後は、御存知のとおり、長女の茶々は秀吉の側室淀殿となり、秀吉の子・秀頼を生み、豊臣家とともに歩みました。

 一方、よく言われていることですが、秀吉は、お市の方に憧れを持ち、何とか助け出したいと考えていたようですが、叶わぬ思いでした。

 一方、長女・茶々は、お市の方の面影を強く残しており、成人後、秀吉の寵愛を受けたのでした。

 

★賤ヶ岳の合戦と前田利家の戦線離脱

 最後になりますが、この賤ヶ岳の合戦中、勝家側についていた前田利家は、秀吉軍が大垣城から大返しで戻ってきて総攻撃をかけた際、秀吉軍と戦わずして、近くの府中城に入ったとされています。

 この合戦上、重要なポジションを任されていた前田軍の撤退は、ある意味合戦の勝敗の左右する上で、大きなポイントであったと言われています。

 

 一方、総攻撃を受けた勝家は軍勢の立て直しを図りましたが、逃亡する兵が多く、不可能だと判断しました。

 そして、勝家が北ノ庄城に逃げ帰る途中、府中城の前田利家を訪ねています。

 

 勝家は、利家が重要な持ち場を離れ撤退したことに対し、責めることなく、 湯漬けと逃げるための馬を所望した上で、貴殿は 昔から秀吉と仲が良かったので御家の存続を図られよとアドバイスし、自らの居城である北ノ庄城へ引き上げていきました。

 その後、利家から預かっている人質を無傷で前田家に返したと言われています。

 

★最後に

 この合戦は、何よりも、勝家が前田利家に一切の文句を言わず、立ち去った様が、鬼柴田と恐れられた勝家の男らしさ、潔さが垣間見えると言われています。

 しかしながら、勝家は、自害をするとき、信長亡き後の織田家を再興できなかったことはもとより、お市の方も巻き添えにしてしまったことが、本当に無念だったでしょうね。

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