昭和初期の日本で軍国主義へと走るきっかけになったと言われている5・15事件ですが、この事件には、いまなお不明な点があります。
事件の前には、このクーデタ計画がかなり漏れていたような形跡があるのですが、なぜか犬養首相の耳には入らず、官邸の警備もそれほど厳戒ではありませんでした。
当時の青年将校であった山口一太郎陸軍大尉も、戦後になって「5・15事件は計画の大要が各方面に漏れていた」と述べています。
つまり、憲兵隊も陸軍省も警視庁もある程度知っていたはずだというのでした。
今回は、この5・15事件についてご案内します。
目次
★犬養首相の経歴
犬養は岡山生まれの政党政治家で新聞記者を経て、立憲改進党の創設にかかわりました。
明治23年(1890年)の第1回総選挙から18回連続で当選を果たし、文部大臣や逓信大臣を務めたあと、昭和6年に首相に就任しました。
★5・15事件当日の状況
昭和7年(1932年)5月15日、78歳の犬養はくつろいだ休日を首相官邸で過ごしていました。
午後5時半頃、長男夫婦と食事をしていると、海軍青年将校・三上卓に率いられた陸・海軍の将校たちが突然と乱入してきました。
彼らはピストルを手にしており、明らかに殺気だっています。
犬養は決して怯むことなく「話せばわかる」と毅然として対応したが、山岸広海軍中尉が「問答無用」と叫んでピストルを発射し、犬養は倒れました。
彼らは速やかに官邸を去りますが、犬養は血だらけになりながら、「あの乱暴者たちをもう一度連れてこい。よく話して聞かせてやる。」と言ったそうです。
しかし、犬養はその夜に死亡してしまいました。
同じ頃、彼らの仲間が変電所や内府官邸、政友会本部、警視庁、三菱銀行などを襲撃しています。
合計実行部隊は27名で行われました。
★5・15事件の原因と背景
昭和初期、日本は不況の真っ只中にいました。
また、満州国関係の問題で国際社会から孤立しており、日本社会全体に不調和音的な雰囲気が漂っていました。
そうした中で、国民支持を取り付けて台頭してきたのが軍部でした。
軍部には、不況を克服できない政府に不満を持つ者が多数いました。
5・15事件の首謀者たちは、政党政治を廃して軍事独裁政権を樹立し、強い日本を作っていこうと考えていての行動でした。
★犬養暗殺のその後
犬養が暗殺され、次に首相となったのは、陸軍大将の斎藤実でした。
これにより、大正13年(1924年)に成立した加藤高明内閣から続いた「憲政の常道」は終焉して、これ以後は軍部が政治に強い影響力を持つようになっていき、日本は軍国主義へと向かっていくのでした。
★5・15事件は、なぜ計画が首相に漏れなかったのか?
さて、冒頭にご案内したとおり、この計画は実行前に、憲兵隊も陸軍省も警視庁も、ある程度知っていたはずだと言われています。
しかし、一国の総理大臣が襲われるという重要な情報でありながら、かつ関係官庁などがある程度把握していた情報でありながら、どうして当の本人には情報は伝らなかったのでしょうか?
これは、一説によると犬養に近い人間があえて伝えなかったとも言われています。
その近い人間とは、当時の内閣書記官房の森恪という人です。
★森恪とはどのような人物?
森は、軍部との結びつきが強く、ファシズム的な思想を持っていたと言われています。
一方で、犬養は軍部としのぎを削るようにして争い、立憲政治を貫こうとした人物でしたので、二人の仲は必然的に険悪でした。
実際に、二人は口もろくにきかない仲だったようで、5・15事件の直後には、「森が若い将校をそそのかしてやらせたのではないか」という噂もでたほどでした。
★5・15事件前の犬養の行動
5・15事件前、犬養は陸軍の若い将校を30名程度クビにしようと考えていたとも言われています。
そして、その内容は軍幹部にも了解をとって天皇に進言しようとしていたとも言われているのです。
もし、それが真実で、こうした大量解雇の計画が森を通じて、青年将校へ直接流れていたとすれば、青年将校たちが犬養暗殺を実行しても、何ら不思議ではないと思われます。
或いは、森は決起情報は事前につかんでいましたが、あえて犬養には伝えず、官邸の警備強化も指示しなかったとも考えられるのです。
いずれにせよ、犬養が暗殺されず政党政治が続いていれば、軍国主義の到来はなかった、或いは遅れていた可能性は十分に考えられます。
どうして、このような事件が生じたのか、また、影でこの事件を首謀した人物がいるのかなどは、現在でも分からないままです。