合戦のお話

御館の乱は上杉謙信亡き後、上杉景虎と上杉景勝の家督争い カギを握った武田勝頼の決断

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★上杉家の家督争いの重要人物だった武田勝頼

 御館の乱とは、上杉謙信亡き後、家督争いのために生じた戦いです。

 周知のように、上杉謙信は正室も側室も持ちませんでしたので、子どもは居ませんでした。

 このために、養子を迎えます。

 しかし問題は、謙信は49歳の若さで脳溢血で突然死してしまったため、跡目を誰にするかを指名しないままに亡くなってしまったということでした。

 このため、景虎と景勝という養子二人が後継者争いをすることとなります。

 そして、この争いで、勝敗を大きく左右したのは、何と謙信の永遠のライバルである信玄の子息・武田勝頼の行動にありました。

 今回は、この上杉家の家督争い「御館の乱」についてご案内します。

★上杉謙信が迎えた養子三名

 前述のとおり、子どものいなかった謙信は三人の養子を迎えています。

 まず、一人目は、隣国・北条氏の七男・景虎でした。

 これは、謙信が、相模の北条氏康との間で相越同盟を結んだとき、氏康の七男を人質として預かりました。

 そして、謙信は、その子がとても気に入り、元服のとき、自分の名前の名乗りである景虎という名を授けているのでした。

 次に、二人目が、謙信の甥に当たる景勝です。

 景勝は、謙信の姉・仙桃院と上田長尾家の長尾政景との間に生まれた子でした。

 血筋からいうと、何といっても、謙信の甥であり、成人した後、謙信が国主に就任したときに名乗った弾正少弼(だんじょうしょうひつ)という官途を授かっており、跡取りとして有力な候補者でした。

 最後に、三人目は、政繁で、彼も能登の畠山氏からの人質だった者を同じく養子として迎えいれました。

 ただし、この政繁は、上杉一族の上条上杉を相続していたので候補としての可能性は低いものでした。

 つまり、謙信の後継者候補は、実質的に景虎と景勝の二人の争いでした。

 そして、謙信の死後、御館の乱とよばれる家督争が勃発したのでした。

★諸説あり 謙信はどちらに家督を譲るつもりだったのか

 一方で、謙信は、生前に景虎と景勝のどちらを後継者にしようとしていたのでしょうか。

 一説によると、旧上杉家としての関東管領の職を景虎に、旧長尾家としての越後の大名の職を景勝にという壮大な計画もあったようです。

 また、一説によると、謙信が倒れたことに真っ先に気がついた直江景綱の未亡人が、「御跡目御相続はいずかに候か。景勝公に候か」と声をかけたところ、謙信がかすかにうなずいたといい、謙信の意向が景勝にあったとされていますが、史実として正しいかどうか分かりません。

 謙信にしてみると、予期なく突然に脳溢血で倒れ、苦しさでもがいているところに後継者を誰にするかときかれても、反応できないと思いますし、聞く側も、突然のことでどうしていいか分からない状態で、後継者をどうしますか?ということは聞けないと思われます。

 おそらく、御館の乱に勝利した景勝が、自己を正当化させるための創作だと思われます。

★上杉謙信は後継者をどのように考えていたのか

 では実際には、謙信はどのように考えていたのでしょうか。

 おそらくですが、謙信は景虎に家督を譲ろうとしていたものと思われます。

 その根拠は、謙信が亡くなる直前の、景虎と景勝の、春日山城内での二人の居住場所を比べてみると答えが出てきます。

 謙信の居住していたところは、実城と呼ばれる本曲輪にあり、そのすぐ東側一段下った二の曲輪に景虎が居住していたのでした。

 一方の景勝は、更にそこから少し離れた「ならひの曲輪」というところで、位置関係からすると、景虎の方が優遇されていたのでした。

★上杉景虎を後継者に選んでいたであろうもう一つの根拠

 また、謙信が景虎に家督を譲ろうしていたと思われるもう一つの根拠として、景勝の支援母体が上田長尾氏であったことがあげられます。

 越後は、従前より長尾氏の一族の対立が絶えませんでした。

 従前、謙信の出身である府中長尾家と、景勝の出身である上田長尾家とは憎しみ合い争いが絶えませんでした。

 そして、謙信の姉・仙桃院は、その時代に政略結婚として、上田長尾家に嫁つぎ、生まれたのが景勝でした。

 そして、その後、謙信という英雄の登場によって一族間の争いが平定され、表向きには謙信に逆らうものはいなくなります。

 しかしながら、この長尾一族の争いは根深いものがあり、実際に和解して随分と時が経過したのち、謙信は姉・仙桃院の夫・長尾政景、つまり景勝の父を事故と見せかけて暗殺し、姉・仙桃院とその子・景勝を上田長尾家から呼び寄せているのでした。

 このため、仮に、家督を景勝に譲ってしまった場合、景勝の出身母体である上田長尾家の勢力が強くなることが目に見えており、謙信の府中長尾家との対立が想定されるとともに、上田長尾家と特に仲の悪い古子長尾家の反乱が目に見えていました。

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★上杉景勝が後継者に名乗りをあげる

 しかし、謙信の死の直後、景虎と景勝の二人の力関係は逆転します。

 謙信が亡くなった二日後、景勝が、本曲輪を占拠してしまいました。

 これは、「謙信の後継者は私だ」と宣言する行動でした。

 しかも同時に、城内にあった金蔵も全て接収したのでした。

 ちなみに、上杉謙信は「金持ち大名」としても知られていました。

 越後黄金山といわれる朝日山金山からの産金があり、また、青そといわれる麻布の原料が特産品となっていて、その製品である越後上布の専売によってかなりの収入がありました。

 このため、金蔵には三万両という莫大な軍資金が蓄えられており、その金がすべて景勝側の手に渡ってしまったのでした。

★上杉景虎が後継者争いから遅れた理由

 一方で、景虎が景勝のように素早い動きをしなかったのは、自分の置かれた立場に安住していたところがあったと思われます。

 景虎の思惑としては、「本曲輪の謙信が死ねば、当然、ニの曲輪にいる自分のところに家督がまわってくる」と考えていた節があります。

 そしてもう一つの理由として、景虎が積極的に動かなかったのは、景勝にくらべ、景虎の方が強力なバックがありました。

 前述したように、景虎は北条氏康の七男です。

 そして、氏康はもう亡くなっていましたが、北条家は兄の氏政が継いでいますので、北条氏の支援が期待できます。

 さらに、甲斐の武田勝頼には景虎の妹が嫁いでいます。

 このため、景虎は、いざとなれば、北条、武田の両家からの援軍によって、景勝を排除するのは簡単だと思っていたものと思われるのでした。

★上杉景虎が・景勝双方から誘われていた勝頼

 謙信の死からちょうど二ヵ月がたった頃、景虎は春日山城を脱して、前関東管領上杉憲正が住む御館に居を移していました。

 これは、その名の通り守護館で、方二町(約二百米)四方の居館でした。

 一応、堀と土塁に囲まれてはいますが、城ではないので、戦いに有利な場所ではありません。

 この時期、なぜ景虎が春日山城の二の曲輪を捨てて御館に移ったのかわからない面もあります。

 本曲輪の景勝から攻撃されそうになったためかもしれません。

 そして、争いは旧長尾一族の争いに似たように激化していきます。

 また、更に景虎は、実家の兄・北条氏政、妹の嫁ぎ先である武田勝頼に援軍の要請をしました。

 しかし、氏政はこの時期、関東の戦いに忙殺され、援軍を送ることができませんでした。

 そして、もう一人の武田勝頼は、一旦は景虎の援軍に回ります。そして、景虎は戦いを有利に進めていくのでした。

 しかし、その後、武田勝頼は、景虎と景勝の仲介役に回るのでした。

★武田勝頼は上杉景勝と和睦し、上杉景虎の敵方となる

 この争いは、武田勝頼の仲介で一旦は納まったものの、すぐに争いが再開されます。

 しかし、武田勝頼は、景勝と和睦をしてしまっており、景虎の援軍には応じてくれませんでした。

 実は、武田軍への援軍要請は、景虎だけでなく、景勝側からも誘いの手が伸びていたのでした。

 そして、景勝は、武田勝頼との交渉に際して破格の条件を提示していました。

 それは、東上野の地の割譲と、黄金一万両を贈るというものでした。

 そして、更に、武田家の二人の家老・長坂釣閑斎と跡部大炊助に、それぞれ数千両の賄賂を贈っていたのでした。

 つまり、謙信が残した春日山城の金蔵にあった三万両にのぼる遺産が、武田家を味方につけるため使われたのでした。

★上杉景虎の戦死を武田勝頼の責任と呪う「北条記」

 結局、この戦いは、翌天正七年(1579年)二月一日に、景虎が御館での戦いに破れ、三月十七日、鮫ケ尾城に入って起死回生を図ろうとしたところを攻撃され、自刃することになるのでした。

 この内容について、北条氏に残された「北条記」には、「勝頼今度大欲に耽り、義理をちがへ三郎(景虎)を殺し玉ふ」と、武田勝頼を非難しているのでした。

★武田勝頼の短略的な行動に対する批判

 歴史に、もしもはありませんが、仮に、この時に武田勝頼が引き続き景虎を援軍していたのであれば、景虎が御館の戦いで勝っていた可能性もあります。

 そうなると、上杉家と武田家との繋がりは、北条家も含めて強固なものとなって、織田信長の天下統一にストップをかけていた可能性もあります。

 そうなると、武田家が滅亡することもなかったかも知れません。

 後年、長篠の戦いで武田勝頼がとった行動に徳川家康が批判したという史料(関連記事参照)もありますが、短略的な感情で動いてしまうと不幸を招くという見本なのかも知れませんね。

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