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徳川秀忠が関ケ原の戦いに遅れても徳川家康は怒っていない?

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★徳川秀忠は真田昌幸・幸村親子に上田城攻めで翻弄される

 よく知られていることですが、慶長五年(1600年 )関ケ原の戦いにおいて、徳川秀忠率いる三万八千の徳川本隊の姿はありませんでした。

 この理由は、秀忠軍が信濃の上田城攻めに手間どり、結局、城を落とすことができず、更に、関ヶ原の戦いにも間に合わないという失態でした。

 今回は、この秀忠の関ケ原の戦いの遅参と、その時の徳川家康の対応についてご案内します。

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★徳川秀忠は徳川本軍を率いて関ヶ原の戦いへ

 慶長五年の七月、上杉景勝を攻めるため、豊臣大名を率いて会津に向けて進軍していた家康は、上方での石田三成蜂起の報を受け、下野の小山で軍議を開いています。

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 これが有名な小山評定です。

 そして、反転して石田三成との戦いに向かうことを決め、福島正則らを先鋒として上方に何かわせ、家康自身もいったん江戸城に入り、東海道を使って上方に向かったのでした。

 ここで家康につき従うのは、本多忠勝,井伊直政らで、これは徳川本隊ではありませんでした。

  徳川本隊は秀忠が率いる三万八千は八月二十四日に下野の宇都宮を出発し、途中から中山道を使って西に進み、九月一日には軽井沢に到着していました。

★徳川秀忠が真田昌幸・幸村親子に開城を勧告

 ところが秀忠軍は、そのまま西に進むのではなく、進路を変え、上田城攻めに向かうのでした。

 これは、先般の小山評定のとき、家康から「自分につくも、三成につくも去就は自由である」と言われ、それまで従軍してきていた真田昌幸と子の幸村(正しくは信繁)が三成に呼応する道を選び、自己の居城である信濃の上田城に引っこんだため、まずは裏切った真田昌幸・幸村親子を降伏させてから進軍しようというものでした。

 秀忠としては「行きがけの駄賃」程度に上田城攻めを考えていましたが、これが命取りになります。

 このとき、上田城に籠城していた兵は約二千程度でしたので、いくら相手があの真田昌幸であるとはいえ、三万八千で攻めれば簡単に落とせるだろうと考えていました。

 そして、上田城まで進軍して、真田昌幸に開城の勧告をしたところ、勧告に応じる旨の回答がありました。

 しかし、講和交渉がはじめられますが、交渉はまとまりません。

 これは、真田昌幸の作戦で、一旦講和交渉に応じて、その後にもの別れとする時間稼ぎでした。

 結局、二日間に及んだ和平交渉は決裂し、翌日から秀忠軍による上田城攻めが始められました。

★徳川秀忠は真田昌幸・幸村の策略にハマる

 この戦いで、真田軍は得意の策略を張り巡らせた作戦を仕掛けてきます。

 その内容は、兵力で圧倒的に勝る秀忠軍が押し気味に戦いを進め、城の付近まで迫ってきたところで、思いもよらぬところから鉄砲や弓失のねらい撃ちを受けて、多くの死傷者を出してしまったのでした。

 また、上田城にも様々な防御が施されており、三万八千の大軍といえども短期間で落とせるようなものではありません。

 結局、秀忠は4日間に及んで上田城を攻めましたが、これ以上、城攻めで無駄な日を送ることはできないと判断し、仙石秀久・石川康長・日根野高吉ら、信濃に所領をもつ武士たちを上田城の押さえとして残し、再び中山道に戻り、来るべき合戦に進軍させることになったのでした。

★徳川秀忠は、どうして真田昌幸・幸村親子に負けたのか?

 この上田城攻めでの秀忠の敗因は何かといえば、やはり、一つには、真田昌幸・幸村の知謀が優れていたことだと思われます。

 しかし、このときの秀忠軍には、榊原康政という、徳川軍の中で、木多忠勝と並ぶ名将がおり、他にも、大久保忠隣らのそうそうたるメンバーが揃っており、彼らの知謀が真田昌幸に劣るとは思えません。

 そこで敗因の二つ目は、秀忠軍の軍監ともいうべき立場にあつたのが本多正信だと思われます。

 つまり、この本多正信と、榊原康政・大久保忠隣らの意思疎通が必ずしもうまくいっていませんでした。

 本多正信は、軍監として、つまり、家康の目となり耳となる形で全軍を統轄する立場でありましたが、彼は武功派武将ではありません。

 普段は、家康の意を汲んで、政策などの企画立案にかかわり、そういう場面で能力を発揮する吏僚派タイプの武将で、家康がいるところではまだしも、いないところでは、榊原康政ら武功派武将との感情的対立がどうしても生じていました。

 要するに、秀忠軍内の不協和音も、敗因の一つだったと思われるのでした。

★徳川秀忠は真田昌幸・幸村親子の追撃をおそれて大回りする

 そして、秀忠軍は上田を出発します。

 しかし、相手は真田昌幸です。

 進軍するにしても、今度は上田城の城兵による追撃というものを警戒しなければなりません。

 このため、本道である和田峠を避け、隣路の大門峠の東にある古道をわざわざ通ったりしたため、さらによけい時間がかかることになってしまいました。

★徳川秀忠は家康にひたすらに謝る

 その後、秀忠は進軍の途中で、家康が関ケ原で三成らを破ったことを知らされるのでした。

 これを知ったときの秀忠の様子について、「徳川実紀」の「台徳院殿御実紀」巻一は、わずかに一言、「大におどろかせられ」とだけ記載されていますが、大事な一戦に遅れてしまった秀忠の苦しみは想像するに余りあります。

 とにかく、早く家康に会って、大事な合戦に間にあわなかったことを詫びなければならないとの思いで馬を急がせ、関ヶ原の戦いから五日後になって、ようやく大津に滞陣していた家康一行に迫いつくことができました。

  そして、秀忠はすぐ家康に面会を申し出たが、家康は「御不予」ということで断られています。

★徳川家康が秀忠にどのように怒ったのか諸説あり

 その後、家康の怒りがおさまり、ようやく秀忠の謝罪を受け入れましたが、その様子については史料によって記載が異なっており、どれが正しいのかが分からない状況です。

 しかも、待たされたのは一日だけだったとする史料もあれば、三日待たされたとする史料もあり、史実が不明です。

ここで、次のとおり各史料を見比べてみたいと思います。

・「徳川実紀」の「東照宮御実紀」附録巻十一

 ここで記載されているのは、待たされたのは一日だけだったとし、誰の取りなしもなく、家康の体調が「御不予」から「御快然」に変わったため、面会したとされています。

 そして、同書では、秀忠が「大事の戦いに間にあわず、申しわけありませんでした」と謝ると、家康は、「参陣の期日を伝えた者の手ちがいもあろう。そう心を痛めることはない」と、かえって慰めていたというのでした。

・「徳川実紀」でも「台徳院殿御実紀」巻一

 しかし、これが同じ「徳川実紀」でも「台徳院殿御実紀」巻一になると少し話しが違ってきます。

 ここでは、家康の怒りがやわらぎ、一日だけ待たされて対面したとされています。

 そして、この二人の間を取りもったのは木多正純だとされています。

 秀忠が家康の拒絶にあって対面できないことを知った木多正純が家康の前に出て、「今度の遅参は、秀忠殿のあやまちではなく、すべてわが父・正信のしわざである。罰するなら正信を罰していただきたい」と申し出たと記述されているのです。

・「台徳院殿御実紀」附録巻一

 さらに、同じ「台徳院殿御実紀」でも附録巻一には、対面を待たされたのを三日とし、間に人った人物は榊原康政とされています。

 ここには、遅参したのは、家康が「いついつまでにどこに集結するかをはっきりさせていなかったからではないか」と榊原康政が家康を責め、「殿の御誤なきにしもあらず」とされています。

 これは、つまり家康が秀忠に合戦の日を知らせていなかった非を責め、この榊原康政の諫言によって、ようやく怒りを解いた家康が秀忠との面会に応じたというのでした。

・「慶長記」

 「慶長記」とは家康の侍医・板坂ト斎が著わした史料です。

 この「慶長記」には、「秀忠公、真田を御すて、木曾路を日夜御急御上、大津にて御対面候。今度合戦に勝候。万一まけ候はば、弔合戦すべしと人数をそろへ上りてよく侯はんに、道を急候とて、まばらに上られ候と御機嫌悪敷。」と記述されています。

 つまり、ここに記載されている内容は、家康が不機嫌になって秀忠にすぐ会わなかったのは、関ケ原に遅参したそのことではなく、遅れたことに焦って軍勢がバラバラに進軍してきたことに怒っていたというのでした。

★それぞれの史料から検討してみると

 同じ場面を描いていながら、これだけ諸説があると判断に苦しみますが、興味深いのは、「慶長記」の記述です。

 ある意味、少し距離のある者が残した史料が存外史実を伝えているケースは多々あります。

 仮に、「慶長記」の内容が史実だったとすると、どうやら家康自身、秀忠軍の到着をあまり期待していなかったという点です。

 これは、勝ったからいいものの、もし負けたなら、秀忠軍に弔い合戦をしてほしかったという気持ちがあったのかも知れません。

 家康としては、関ケ原での戦機が熟してしまった以上、秀忠率いる徳川本隊抜きで開戦せざるを得ない状況だったと思われます。

 また。一説によると、このときの秀忠軍を待たずに開戦に踏み切ったのは、父子共倒れになるのを防いだ家康の深謀遠慮とする説もありますが、前述の史料からは、それを読み取るのはチョット無理があると思います。

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