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天草史郎の島原の乱をわかりやすく どうして一揆軍は四倍もの幕府軍と戦えたのか?

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 戦国時代、織田信長は珍しいもの新しいものを好み、当時、新しく布教が始められたキリスト教も、人々は自由に信仰することができました。

 ところが、豊臣秀吉の時代になると、イエスズ会の狙いは信者を獲得するとともに、キリスト教の布教によって得た信者の力を借りて、日本での領地を拡大していくこともあることが分かってきます。

 このため、秀吉は、キリスト教の信仰を禁止します。

 また、江戸時代になっても、その状況は続きました。

 今回は、このようにキリスト教禁止令がだされる中、信仰を貫いた島原の乱とそのリーダー天草史郎のお話を御案内します。

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★ 江戸幕府から禁教令がだされる                       

 慶長十七(一六一二)年、キリシタン大名として知られていた島原藩主・有馬晴信は、キリシタンの幕府役人と謀って領地の拡大を狙ったとして死罪に処せられました。

 このため、徳川家康はそれを機会として、慶長十八(一六一三)年十二月、禁教令を布告します。

 これにより、キリスト教の信仰は一切禁しされ、幕府は宣教師の国外追放を諸大名に命じたのでした。

 このため、キリシタン大名だったものは、仏教を弾圧し、寺を焼いたり仏像を捨てたりしてきましたが、今度は一転して、教会を焼いたり十字架を捨てたりという弾圧を行うことになるのでした。

 そして、有馬氏に代わって島原藩主となつた松倉氏も、キリシタンの弾圧を実行しました。

 このため、島原にいた宣教師たちは摘発されて、国外へ追放されます。

 つまり、民衆はキリスト教の信仰を捨てるよう迫られたのでした。

 このキリスト教弾圧の様子を描いた「雲仙地獄殉教図」には、改宗を拒む者は、煮えたぎる源泉に突き落とされるなど、厳しい拷問を受けた様子が描かれています。

 こうした弾圧により、禁教令から十四年後、島原からはキリシタンが一掃されたかに見えました。

★禁教令から十四年後バチカンから手紙が届く

 しかし、旧藩主・有馬氏の元家臣や民衆の中にも、信仰を捨てきれない人びともいたのでした

 彼らは、「拷問や侮辱などあらゆる苦難に耐え、強固な信仰を示せば救済される」という捉を持つコンフラリアという秘密組織をつくり、祈り続けていたのでした。

 そして、息を潜めて信仰を続ける人びとの元に、大いなる励ましが届きます。

 ローマカトリックの総本山・バチカンから、「我等はこれより、殉教を覚悟して母国も捨て去る宣教師の大群をあなた方の所へ送ることにしよう」という手紙が送られてきたのです。

 それは、「島原の乱」で一揆軍が敗北する十年前のことでした。

★宣教師の予言どおり天草四郎が現れる

 そして、禁教令から二十三年後の寛永十四(一六三七)年、ときの将軍は三代将軍・徳川家光でした。

 一方この年、島原・天草は三年連続の飢鍾に見舞われました。

 それにもかかわらず年貢の取り立ては厳しかったため、多くの人びとは極度の飢えにさらされていたのでした。

 このような厳しい状況の中、一度キリスト教を捨てた人びとが、信仰をよりどころとして、キリシタンに復帰する人が増えてきます。

 そして、この頃、ある噂がささやかれていました。

 それは、二十三年前、宣教師が日本を去る時に「やがて、善人が必ず生まれ出るだろう。その子は習わないのに諸学を極め、人々の頭に十字架を立てるだろう」という予言を残したというのです。

 そして、島原の目と鼻の先にある天草に一人の若者が現れます。

 彼の名は天草四郎、十六歳です。

 彼は、かつてキリシタンだった浪人・益田甚兵衛の息子でした。

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★天草四郎というカリスマの出現にざわめきだす民衆

 天草四郎は、幼き頃から、キリスト教の書物や教典をそらんじて、人びとを驚かせていました。

 ある日、村々に一通の檄文がかけめぐります。

 「異教徒にはデウス様より火の審判が下される。天草四郎様と申すは、天人である。キリシタンにならない者は、デウス様に地獄へ落とされるのだ」

 十月二十三日、島原の有馬村で村民が集まりました。

 天草四郎から直接教えを受けた村人が、キリスト教を再び信じようと説きました。

 そして、人々は「いま起こっている天候不順や飢鐘は、自分たちがキリスト教を棄てたせいだ」と叫びます。

 このような全能の神デウスによる最後の審判、そして天草四郎というカリスマの出現、これらの状況に、村人のほとんどがキリシタンに戻ろうとし、その動きが加速されていったのでした。

★島原の乱の勃発

 そして、十月二十五日、ついに民衆は武器を手にとり、次々に一揆軍に参加します。

 一揆軍は、戦いの経験がある浪人たちに率いられて、代官所や藩邸を次々と襲いながら進軍を始めていったのでした。

 これにより、島原の乱が始まったのでした。

 この民衆の蜂起は、島原藩の三分の二の村々で起こりました。

 さらに、この民衆の蜂起は、隣の天草にも広がります。

 そして、一揆軍は、翌日、島原城に攻め寄せ、藩の正規軍と衝突することになりました。

 一方、将軍・家光は危機感を募らせていました。

 反乱の背後に、カトリック教国と追い出したはずの宣教師の影を見たからです。

★島原の乱を抑えるため幕府が十二万の兵力をだす

 幕府は、九州をはじめ西日本各地の大名たちを乱の鎮圧に向かわせます。

 動員された軍勢は最終的に十二万人に上りました。

 この軍勢の数は、豊臣氏を滅ぼした大坂の陣以来の兵力動員数でした。

 それに対して、天草四郎を大将にした一揆軍三万七千人は、原城に籠城しました。

 そして、一揆軍の三万七千の人々は、十年前にローマのバチカンから届いた手紙に書かれた「我等はこれより、殉教を覚悟して母国も捨て去る宣教師の大群をあなた方の所へ送ることにしよう   」という言葉を信じて、カトリック教国の援軍が来るまで持ちこたえようとしたのでした。

★天草四郎は援軍を待つも到着せず

 一揆軍が原城に立てこもって一か月後の寛永十五(一六三八)年元日、幕府軍十二万人は大規模な攻撃を仕掛けます。

 しかし、一揆軍は果敢に迎撃し、幕府側からは、四千人近い死傷者が出ました。

 そして、一月四日、大敗した幕府軍に新しい指揮官が到着します。

 老中・松平信綱、幕府一の切れ者でした。

 信綱は、武力による強引な作戦を中止し、原城に向けて矢文や使いを送り、切り崩しにかかりました。

 「キリシタンになったことを悔いてそれを止め、投降するものは許す」

 しかし、これに対する一揆軍の返事は「我々は神に対し、命を捧げる覚悟である」というものでした。

 信綱は、キリシタンの信仰の固さを思い知りました。

 このため、戦いは混沌とします。

 しかし、一揆軍が信じていた宣教師とポルトガルからの援軍は、ついに訪れることはありませんでした。

 これに関しては、ポルトガル商人から本国に伝わったものの中に、次のような島原の乱の風聞も残されていました。

 「このたびの戦いはキリシタンとは関係ない。島原藩が幕府に虐政を隠すためにキリシタン信徒の反乱だと言いふらしたのである。」

 何と悲しいことに、一援軍が来ると信じていた宣教師やポルトガルからの援軍は、初めから来る予定などなかったのでした。

 ★天草四郎落命

  一方、敵方の指揮官・松平信綱は、一揆軍のキリシタン信仰を揺さぶるべく、心理作戦に打ってでます。

 一月十三日、長崎・平戸からオランダ船を呼び寄せ、原城を砲撃させたのです。

 半月に渡る艦砲射撃によって一揆軍は大きな被害を受けました。

 また、それと同時に味方だと信じていた外国船からの砲撃は籠城する人びとを失望させました。

  そして、籠城すること三か月、頼みの綱だった宣教師とポルトガルからの援軍は、いっこうに来ません。

 一揆軍の結束にかげりが生じます。

 そして二月二十七日、幕府軍による総攻撃が始まりました。

 四方から一斉に原城に突入しました。

 これまであれば、果敢に敵を押し返してきた一揆軍でしたが、もはや対抗する力は残っていませんでした。

 そして、原城は落城します。

 キリシタンは、女や子どもまでも、ことごとくなで斬りにされました。

 一揆軍の精神的支柱であった天草四郎も、次の言葉を遣し、ついに本丸で命を落としました。

  「いま籠城している者たちは、来世まで友になる」

  城に火の手が回る中、籠城した人びとは最後まで神を信じ、折り重なるように死んでいきました。

 そして、寛永十五年二月二十八日、原城は陥落し、「島原の乱」は終わりを告げました。

★島原の乱が終了後の幕府の対応

 幕府軍は、まるで乱を封印するかのように、一揆軍の遺体もろとも原城を城ごと埋め尽くしました。

 そして、この乱の直後から、幕府は禁教令をさらに強化していきます。

 あの有名な「踏み絵」を使って、キリシタンを摘発する宗門改が行われるようになったのも、この頃からでした。

 そして、翌年である寛永十六(一六三九一年、将軍・家光は、ポルトガルと国交を断絶します。いわゆる鎖国の始まりでした。

 この後、約二百三十年にわたる鎖国時代となったのでした。

 やがて、島原の乱から約二百三十年経過後、明治維新を迎えます。

 このため、長崎では再びキリスト教の信仰が認められるようになりました。そして、キリスト教の布教の再開により、長崎を訪れた宣教師たちを迎えたのは、江戸時代の禁教令を耐えしのぎ、信仰を守り続けた末喬たちでした。

 「苦難に直面しながら、彼らの信仰の精神は打ちのめされていない」

 これは、人びとの信仰心に感激した神父の言葉です。

 信者たちは長崎の地に、再び教会を建設していったのでした。

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