歴史上の人物

武田信玄は上杉謙信と和睦していたら天下統一を成し遂げていた? 川中島の戦いをわかりやすく 戦国時代の両雄に芽生えた友情

投稿日:

 武田信玄とは、戦国時代に甲斐の国に生まれた英雄です。 

 そして、信玄と言えば、川中島の戦いで、死闘を繰り広げた上杉謙信と並び評されます。

 数ある戦国大名の中でも、この時代の武田軍と上杉軍の強さは、他の大名の比ではなく、圧倒的な強さを誇ってきました。

 そして、この両雄の戦いは、川中島の戦いで五度に及びますが、互いに合い譲らぬまま痛み分けのような形で終わります。

 そして、武田信玄は、死を前にして、息子・勝頼に、「謙信を頼るように。謙信は信頼できるに値する人物だ。」と遺言しました。

広告

 この信玄の言葉には、天下統一の夢が破れ、謙信との間に和議ができていれば、もっと早く上洛を始めることができたかも知れないという無念の気持ちがあったものだと思われます。

 今回は、武田信玄からみた川中島の戦いについて、ご案内します。

★武田信玄の周辺国への侵攻

 武田信玄は大永元(一五二一)年、甲府盆地の北にそびえる険しい山,要害山で生まれました。

 信玄が生まれた十六世紀は、京都の室町幕府の権威は失墜して、戦国大名が、各地で領土を奪い合い、戦争を繰り返す時代でした。

 天文十(一五四一)年、二十一歳で甲斐武田を治める武田家の主となった信玄も、「風林火山  疾きこと風のごとく、静かなること林のごとし、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」という古代中国の兵法家・孫子の言葉を旗印に掲げて積極的に領土の拡大に乗り出していました。

 そして、その信玄が目を付けたのは隣の国・信濃でした。

 甲斐の国の南は今川氏、東は北条氏という強大な力を持った大名が治めており進攻は困難な状況でした、

 しかし、一方で信濃には、まだ一国をまとめる勢力がなく、豪族が割拠する状態でした。

 このため、信玄は、信濃に攻め入り、地元の豪族たちを平定して、この地を武田家の領地としました。

★武田信玄の旗印は「風林火山」

 これに対して、信濃の豪族たちも黙ってはいられません。

 天文十七(一五四八)年、信玄に反撃しようとした信濃の豪族たちが、塩尻峠に結集します。

 このため、信玄はすぐさま軍勢を率いて甲府を出発し、塩尻峠に進軍を開始しました。

 ところが敵前四十キロの地点で武田軍は突如、行軍を止めます。

 信濃の豪族連合は、この武田軍の行動を不審に思いつつ、信玄の出方を待っていました。

 しかし、武田軍は三日経とうが四日経とうが動こうとしません。

 そして、八日経った七月十八日タ刻、いっこうに動かない武田軍に信濃豪族連合が油断を見せ始めました。

 その時、武田軍は突如、騎馬部隊を率いて、行動を開始します。

 四十キロの道のりを数時間で一気に進み、夜のうちに信濃勢が陣取る峠にひそかに軍勢を展開します。

 そして、夜があけると共に、武田軍は一斉に激しい攻勢を開始します。

 不意をつかれた信濃勢は総崩れとなり敗走したのでした。

 このように、信玄の戦い方は、じっくりと待ち、素早く動く、静かに近づき、激しく攻める、ということを基本としていました。

 そして、信玄は風林火山の戦略で着実に豪族たちを打ち負かし、領地を拡大していきました。

★一方、上杉謙信は義を重んじる人物

 天文二十二(一五五三)年、信玄は次第に信濃を制圧して領地を拡大していきます。

 そして、越後との国境に迫っていました。

 しかし、その前に強敵が立ち塞がります。

 それが、越後の長尾景虎、後の上杉謙信です。

 この時、謙信は二十三歳、越後統一を果たしたばかりでした。

 若き謙信は自ら戦の先頭に立ち連戦連勝、その軍事の天才ぶりは「戦いの神、毘沙門天の化身」とおそれられていました。

 また、謙信は信仰に厚く、義を重んじる性格でした。

 この時も謙信は、越後に逃げ込んだ豪族たちの頼みに応えて川中島に出陣したのでした。

●関連記事

虎御前(青岩院)が上杉謙信の信仰を深く育てる

仙桃院 (綾の方)を巡る謙信の後継者

★第一次川中島の戦い始まり

 天文二十二年八月、第一次川中島の戦いが始まりました。 

 上杉軍の激しい攻撃に武田軍は圧倒され、後退を余儀なくされます。

 勇猛果敢な謙信の軍勢の前に、信玄の川中島制圧は阻まれました。

★武田信玄の川中島侵略作戦

 信玄は、謙信との川中島の戦いで押し戻されてしまったので、謙信を打ち破る手立てを考えます。

 そして、まずは背後を固めるため、南の今川、束の北条に働きかけて、三国の軍事同盟を成立させます。

 同盟が成立するやいなや信玄は、再び川中島侵攻に乗り出します。

 一方、信玄の川中島侵攻を知った謙信は越後を出発し、再び進撃を開始します。

 第二次川中島の戦いの始まりでした。

★第二次川中島の戦いの始まり

 信玄軍と謙信軍は川幅およそ五百メートルの犀川を挟んで睨み合いを続けます。

 対時することおよそ二百日、両軍共に限界が近げいてきた閏十月、ようやく動きを見せたのは信玄側でした。

 信玄は同盟を組む今川義元を介して、謙信に停戦をもちかけたのです。

 その条件とは、信玄が征服した川中島の領地をもとの領主に返すというものでした。

 これを受けた謙信は、道義が立ちさえすればそれでよい、と考えます。

 そして、謙信はこの停戦調停に応じ、軍勢を率いて越後に引き上げていったのでした。

★武田信玄は停戦協定を反故にして再び川中島を侵略

 しかし信玄は、間もなくこの停戦協定を反故にする行動に出ます。

 それは、信玄は、翌年には、再び川中島攻略を開始したのでした。

 これは、雪で謙信が出兵できない隙をついて、再び川中島を手中に収めたのでした。

 約束を破った信玄に謙信は激怒しました。

  「信玄個人に恨みがあるわけではない。しかし信玄の侵略によって信濃の豪族は滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊され、民衆の悲しみの声が絶えない。隣国の主として、これを黙認することはできない。」

 謙信は、三たび、川中島に迫りました。

★第三次川中島の戦い

 弘治三(一五五七)年の第三次川中島の戦いが始まりました。

 この第三次の川中島の戦いには、信玄は戦線には姿を見せず、兵には謙信の軍勢と正面切って戦わないよう命じていました。

 このため、武田軍は謙信が攻めかかると退却し、遠くから監視するという動きを繰り返したのでした。 

 「敵に対しては勝ちすごしてはならない。負けなければよいのである」

   被害の大きい戦闘を避け、敵が去った後に、巧みに領土を拡大する、これが信玄の兵法の極意でした。

 結局、謙信はそれ以上敵国の中へ深追いすることをあきらめ、越後へ後退せざるをえませんでした。

★第四次川中島の戦い

 その後、永禄四(一五六一)年の第四次川中島の戦いは、最も激しい戦いとなりました。

 信玄は、この戦いで、あの有名な「キツツキの戦法」を使います。

 この戦法は、自軍の二万の兵を二手に分け、八千の兵が本陣を守り、別動隊一万二千が敵方の側面から攻撃するというものです。

 しかし、軍勢を二手に分けるということは、別動隊が到着するまでは兵力が手薄になるというデメリットもあるものでした。

 そして、戦いが始まって上杉軍が八千の武田軍を押し始めます。

 一時は信玄の本陣の間近まで迫り、信玄は討ち死の危機にもさらされるほどの状況となりました。

 このままでは、ゆけば、我が本陣が破られるのは時間の問題、ならばここで突撃すべきか?

 さすれば上杉も動揺し、わずかながら勝機もあろう。

 しかし、もし攻撃の隙を突かれれば、我が軍は総崩れとなり、甲斐の国は滅ぶ。

 勝ちはいらぬ、しかし負けることは断じて許されぬ。

 残る道はただ一つ、動かざること山のごとし!  たとえ果てようとも、最後まで、側面に周り込ませた別動隊からの到着を待つしかない。

 そして、上杉軍がすぐ手前まで迫ってきたところで、別動隊が到着し、敵方を側面から追撃しました。

 この別動隊の到着で、武田軍は息を吹き返し、戦いの形勢は一気に逆転します。

 そして、武田軍は、一気に上杉軍を攻め立てて、撤退させることに成功しました。

 しかし、信玄の戦いの基礎である「勝ちすごしてはならない。負けなければよい」という考えから決して深追いをすることなく、戦いは終わっていったのでした。

★伝説となった武田信玄と上杉謙信の一騎討ち

 この第四次川中島の戦いは、両軍併せて死傷者二万七干を出した激戦でした。

 そして、信玄は、一時的にせよ、上杉軍がほんの手前まで迫ってきた状況となり、これが、伝説の信玄と謙信の一騎討ちの原形となったのでした。

 武田軍は、戦い終了後、「勝ちどき」の声を上げます。

 「上杉破れたり!  川中島は武田の手中にあり」

 一方、謙信は、戦いの三日後、「ご苦労のおかげで凶徒を多数討ち取り、年来の本望を達した」という書状を武将たちに送っています。

 謙信も、武田軍に大打撃をあたえた第四次川中島の戦いを勝利としたのでした。

★第五次川中島の戦い

 永禄セ(一五六四)午、第四次川中島合戦の三年後のことです。

 再び、武田信玄と上杉謙信の、両雄は川中島に出陣しました。

 そして、対時すること二か月、しかし両軍とも戦闘を始めることができないまま撤退したのでした。

 これ以後、この両雄が戦場で向き合うことはありませんでした。

 そして、越後への侵攻を断念した信玄は、領土拡大の矛先を、同盟を結んでいた駿河の今川氏に向けていきました。

★反信長勢力の期待の星・武田信玄

 その後、信玄は西へと領土拡大を続け、上野から美濃に至る全国屈指の大大名へと成長していました。

 一方、その頃は、京都周辺の近畿地方は織田信長の勢力下にありました。

 しかし、織田信長は、その強引なやり方で敵も多く、その反信長を掲げる勢力の頼みの綱は、武田信玄でした。

 そして、十五代将軍・足利義昭、一向宗・顕如、浅井・朝倉連合軍などの多くの期待を一身に受けて、信玄は三万の大軍を率いて、京へと進軍します。

 進軍途中、信長の同盟を結んでいる徳川家康を、三方ヶ原の戦いで赤子の手をひねるように負かしたのち、信玄は病に倒れてしまったのでした。

 元亀四(一五七三)年四月十二日、享年五十三でした。

●関連記事

顕如は石山本願寺を拠点に織田信長と10年におよんで戦った僧侶

室町幕府十五代将軍・足利義昭は織田信長に京都から追われて鞆幕府を開き、名護屋まで参陣していた?

三方ヶ原の戦いで敗れた徳川家康は絵を座右におき、家臣の大切さを気付く

★武田信玄と上杉謙信の伝説

 今、川中島の古戦場の信玄の本陣跡には、信玄と謙信が一騎打ちをする様を表した銅像が立てられています。

 信玄と謙信、名将が死力を尽くして戦った川中島の合戦は、いつしか両雄一騎打ちの伝説を生み出しました。

★武田信玄最期の言葉が上杉謙信をリスペクトし「敵に塩を送る」という伝説になった

 また、信玄は、死の間際、病の床で息子の勝頼に語った言葉が伝えられています。

 「上杉謙信とは和議を結ぶように。謙信は男らしい武将であるから頼ってゆけば、若いお前を苦しめるような行いはするまい。私は、大人げないことに最後まで謙信に頼るということを言わなかったため、和議をむすばないままに終わった。お前は必ず謙信に敬意を表して頼りとするがよい。上杉謙信はそのように評価してよい人物である」

 この内容は、信玄が謙信をとてもリスペクトしていたことが分かるものだと言われています。

 そして、このような謙信の人物像を表す言い伝えに、海に面していない武田の領地で塩が不足していたときに、謙信が信玄に塩を送ってきたという、あの有名な「敵に塩を送る。」という言い伝えにもなっているのだと思われます。

-歴史上の人物

Copyright© 出来事を考えてみよう , 2019 All Rights Reserved Powered by STINGER.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。