歴史上の人物(女性)

仙桃院 (綾の方)を巡る謙信の後継者

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 仙桃院は、上杉謙信の6つ年上の姉です。

 髪を降ろす前は綾の方と名乗ってましたが、夫との死別後、仙桃院を号しました(ここでのご紹介は仙桃院とさせていただきます。)

 謙信は、結婚しなかったために実子がおらず、仙桃院の実子・景勝と、仙桃院の娘婿・景虎が「御館の乱」で争います。

 この戦いの結果、実子・景勝が勝利して上杉家の家督を継ぎます。

 しかし一方で、敗れた景虎は勿論のこと、娘、孫ともに死に追い込まれるという、仙桃院にとって、悲し過ぎる結末が待っていました。

 今回は、この仙桃院についてご紹介していきます。

★長尾家内の懐柔策として嫁に出される

 謙信には仙桃院という6つ年上の姉がいました。

 仙桃院は、兄・晴景が、府中長尾の家督権者のとき、上田長尾を懐柔し、友好関係を築こうと長尾政景に嫁がせました。

 ちなみに、長尾家は、府中長尾を本家として、上田長尾、古志長尾の分家があり、一族間での争いごとが頻繁にあり、互いに不信感を持っていました。

 上田長尾は、現在の南魚沼市の標高634メートルの坂戸城を本拠としていました。

 この地は上田荘の代官だったことから上田長尾と呼ぶようになりました。

 坂戸城は、三国峠から関東に入る街道を押さえる軍事的重要地点にありました。

 政景と仙桃院の夫婦仲は良く、子供も二男二女が生まれました。

★上杉謙信と夫・長尾政景の軋轢

 仙桃院の夫・政景は、謙信の府中長尾への反感を強く持ってました。

 そして、19歳で謙信が家督を継ぐと、政景は若き謙信をあなどって反旗をひるがえしました。

 反旗をひるがえして二年が経過し、21歳の謙信は、坂戸城にこもる政景に総攻撃をかけるべく軍勢を集結させます。

 このとき、はじめて勝ち目がないとわかった政景は、誓詞を送って降伏しました。

 当初、謙信は政景を許す気はありませんでした。

 しかし、老臣たちが謙信をとりなし、更には姉・仙桃院のことも考慮して政景を許しました。

★夫・長尾政景が亡くなる

 反乱から降伏後、謙信は政景を重く用いるようになります。

 関東へ出陣する際には、春日山城の留守も任せました。

 しかし、謙信は、心底からは政景を信頼はしておらず、将来は禍根の種ともなると思っていました。

  そして、永禄七年(一五六四)夏の野尻(南魚沼市)で、政景は舟遊びの最中に酒に酔ったうえに、湖に飛び込み溺死したとされています。

 しかし、これには、裏があるようで、史書「北越軍記」には、謙信の意を汲んだ家臣が、舟底にノミで穴をあけて、酔った政景を舟に乗せて沈めたと記載されています。

★仙桃院は子を連れて春日山城に戻る

 綾の方は夫の突然の死を坂戸城で知ります。

 そして、弟・謙信からは子を連れて春日山城に戻ってくるよう命令がありました。

 こうなると、仙桃院はこの夫の事故死が、弟・謙信の仕組んだ罠だった可能性が高いことも理解したと思われます。

 しかし、仙桃院としては、夫婦仲は悪くは無かっものの、夫・政景が最初は弟謙信と反目し、さらに母の実家の古志長尾を嫌っていることから、気苦労も多かったと思われます。

 このため、仙桃院は夫の死を事故死と自ら信じることにし、髪を落とすと仙桃院と号して、子ども四人を連れ、謙信の命令のままに春日山城に帰ったのでした。

★上杉謙信と仙桃院の実子・景勝との出会い

 謙信は結婚をしていないため、実子はいません。

 しかし、仙桃院の実子・景勝を可愛がります。

 そして、謙信は景勝を養子にすると、自ら「いろは」の習字手本を書いてやるなどして養育しました。

  また、その一方で、謙信は関東管領となって、北条氏と戦いを繰り返してきましたが、人質に取った北条氏康の七男に、自分の初名である「景虎」の名を与えて養子にしました。

 そして、更にこの景虎に仙桃院が産んだ娘・華渓院と結婚させました。

 謙信は、おそらく将来的に、長尾氏の総領として景勝には越後の地の家督を継がせ、景虎には上杉氏から譲られた関東管領を継がす心づもりがあったため、このように二人の養子をとったようでした。

 そして、この養子二人は姉・仙桃院の血によって結ばれていることで、二人が共存して、自分の跡を継いでくれることを願っていたようでした。

★仙桃院の幸せな日々

 こうしたなか、仙桃院の位置付けは、春日山城でうやまわれます。

 まず、本来であれば、上杉家を差配すべき正室が謙信にはいない状況にあって、仙桃院は弟・謙信が跡取りと決めた景勝と景虎夫人の生母だったので当然と言えば当然です。

 このため、仙桃院は、自然と春日山城の奥を仕切る女主人となり、幸せな日々を送ることになりました。

★御館の乱と仙桃院の苦悩

 しかし天正六年(一五七八)、酒が好きだった謙信は脳溢血で倒れ、49歳で突然亡くなってしまいます。戦場では無敵だった謙信も、病気には勝てませんでした。

 この早すぎた謙信の死は、跡目のことについて謙信から十分な説明が無かったため、二人の養子同士の抗争へと発展していきました。

 結果的には、謙信が姉の子どもたちを幸せにしようとしたことが裏目に出た形となりました。

 この養子二人の争いは、謙信というカリスマが不在となってしまい、かつての長尾家の内紛を蘇らせるものでした。

 そして、景勝は春日山城に、一方の景虎とその妻で仙桃院の娘である華渓院は四キロ先の御館に篭りました。

 仙桃院は、この二人の戦いに和議を願い、両者が生きてくれることを願い続けました。

  しかし、景勝には上田長尾が味方し、景虎には古志長尾が味方して、益々、泥沼化していきます。

 そして、翌年三月、景勝が御館を攻略して、華渓院は自害、逃れた景虎も腹を切り、二人の間に生まれた九歳の道満丸も斬殺されてしまいました。

 これは、仙桃院にとっては、息子・景勝の勝利以上に悲しい娘夫婦と孫との永遠の別れでした。

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★その後の上杉家

 御館の乱以降、皮肉にも、謙信が嫌っていた上田長尾が、景勝を支えて勝利します。

 そして、上杉家の主流となっていき、上杉米沢藩(山形県米沢市)へと続いていきました。

  また、仙桃院は景勝とともに移封された会津黒川城(若松城の前身。福島県会津若松市)、米沢城(山形県米沢市)へと行き、慶長十四年(1609)二月十五日、米沢城二ノ丸で亡くなりました。八十六歳でした。

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