歴史上の人物(女性)

満天姫の嫁ぎ先津軽家への想い

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 皆さんは、満天姫という徳川家康の姪(養女)を御存知でしょうか?

 彼女は、嫁ぎ先である津軽家のために、先夫との実子・直秀に毒をもって亡きものとしてしまいます。

 毒を飲まされた直秀は、「母上」と叫びながら絶命してしまいます。

 しかも、この話には、石田三成の血を引く藩主・津軽信義を守るため、徳川の血を引く満天姫が実子に毒をもったということでもあり、皮肉的な運命を感じてしまいます。

 今回は、この内容を御紹介していきます。

 

★津軽家が石田三成の子供をかくまう

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 慶長五年(1600年)の関ケ原合戦で、弘前城を居城とする津軽家は、一族の中で西軍と東軍に別れました。

 この当時、津軽家の当主・津軽為信の嫡子・信建は、大坂城にいて豊臣秀頼の小姓をしていました。

 一方、津軽家の三男・信牧(二男は早世)は徳川家康の嫡子・秀忠の小姓をしており、津軽家の当主・為信も家康に味方します。

 関ヶ原の合戦後、「家康勝つ。三成敗れる。」の知らせが大坂城に届いたとき、津軽信建の小姓仲間で親友に、三成の二男で12歳の石田源吾がいました。

 信建は、源吾に累がおよぶのを心配し、自身の領地である北の地に逃れれば安全と思い、津軽まで逃げることを持ち掛けます。

 また、大坂城には、源吾には9歳の妹・辰子姫もおり、秀吉の正室・おねのもとで使えていました。

 その後、関ヶ原の戦いの敗戦の影響で、佐和山城は陥落します。これにより、石田三成一族は滅亡しますが、この時、源吾と辰子姫の兄妹二人は、一緒に津軽へ逃げていました。

 

★石田源吾と辰子姫の兄妹での逃亡生活

 兄妹二人は、深味村(青森県板柳町)に身をひそめて、母方の杉山姓を名乗って暮らしていました。

 そして、二人で津軽に住んで7年が経過した頃、頼りとする信建が病没してしまいます。

 さらに、追い打ちかけるように、その父・為信までもが立てつづけに亡くなってしまいました。

 

★新藩主・津軽信牧と辰子姫との結婚

 兄妹の二人は、為信・信建親子が亡くなってしまったので、新藩主・津軽信牧に庇護を求めました。

 そして、信牧は兄妹の二人が面会した際、妹の辰子姫の洗練されて都会的な雰囲気に一目ぼれをしてしまいます。

 そして、七つ年下の辰子姫を妻にしてしまいました。

 

★津軽信牧と満天姫との結婚

 しかし、信牧と辰子姫の幸せな結婚生活は長くは続きませんでした。

 江戸幕府は、本州最北端の津軽を藩政統治上、非常に重視していたので、徳川家と津軽家との婚姻によって、その絆を強固にしようと、家康の養女満天姫を信牧の正室にどうかという申し出があったのでした。

 この申し出は、津軽家にとって、とても名誉ではあるものの、辰子姫にとっては、これほどの衝撃はありませんでした。

 やむを得なく、関ケ原の敗者である石田三成の娘・辰子姫は身を引くしかありませんでした。  

 

 しかし、津軽家としては、徳川家からの婚姻の申し出を承諾する以外の選択肢はありませんでしたが、信牧の辰子姫に対する愛情は変わりませんでした。そして、別れるというのは考えられないことでした。

 だが、 辰子姫を弘前城に置くと、満天姫やその侍女たちが、どんな態度に出るか分かりません。

  このため、信牧は、利根川流域の大舘(群馬県太田市崖島町)に辰子姫を住まわせることとします。

 

 この大舘は、関ケ原の戦いの恩賞として、津軽家が受けた二千石の飛び地でした。

 信牧は、辰子姫と婚姻して以来、参勤交代で江戸と弘前を往復する途中に、必ず、大舘の辰子姫のところに逗留するようになります。

 やがて、辰子姫は嫡男を産みますが、32歳の若さで病没してしまいます。残された子が5歳の元和九年(1623年)のことでした。

 

★満天姫が津軽家に嫁ぐまでの経緯

 次に、お話を主人公の信牧の正室になった満天姫に移します。

 満天姫は、信牧とは再婚でした。彼女は家康の姪(松平康元の娘)で、初めは福島正則の跡取りである福島正之に嫁いでいました。

 当初、福島正則には嫡子はなく、姉の子の正之を養子としており、満天姫は、そこに嫁いでいました。

 ところが、正則は晩年に実子・忠勝が誕生します。

 すると、正則は養子・正之が邪魔になってきました。しかし、正之の妻は徳川家の女であるため、簡単に廃嫡できません。しかも、満天姫は、男の子も産んでいます。

 このため、幕府は正之を支持することは明らかでしたので、正則は、正之を亡きものとしてしまいました。満天姫が、まだ19歳のときでした。

 

 一方の正則は、正之は不要でしたが、徳川の息のかかった満天姫を手放したくありませんでした。 

 このため、正則は、わずか9歳の実子・忠勝と満天姫とを婚姻させ、満天姫を広島城に引き止めました。

 

★満天姫と福島忠勝との離縁

 幕府は、この満天姫の再婚を見て見ぬふりをしました。

 この頃、幕府は、豊臣家恩顧の大名と豊臣家とのつながりに気遣いしていたのが理由でした。

 しかし、 約5年後の慶長十六年(1611年)に、加藤清正が亡くなったのを契機に、大名家の世代交替が進み、豊臣家への同情も少なくなったとみた幕府は、一転、忠勝と満天姫とを離縁させ、広島からの戻ってくることを強硬しました。

 

★満天姫と津軽信牧との婚姻

 広島から江戸に戻ったときの満天姫は24歳でした。

 そして、徳川家は、満天姫を、そのまま津軽信牧に嫁がせました。

 徳川家にとっては、津軽家を婚姻によって"親徳川"とし、伊達家などの奥州の外様大名を北から牽制するためのものでした。

 津軽へ旅立つ前に、満天姫は家康のいる駿府城に立ち寄りました。

 家康は、亡き夫・正之との幼き子を連れた満天姫に対して、「不欄な娘ぞ」と、老いた目に涙を溜めていたわりました。

 そして、満天姫は、部屋を出る最後に、家康が日々鑑賞していた「関ケ原合戦屏風」に、亡き夫・正之の活躍が描かれていたのを見て、家康に欲しいとせがみます。

  「関ケ原合戦屏風」は、家康秘蔵の屏風だったが、満天姫の懇願に断り切れず、亡き夫が描かれた、その右隻を与え、左隻を残しました。

 

★満天姫は良妻賢母

 満天姫は芯の強い女性でした。しかし、大名家に嫁いだ徳川家の女性の多くが、将軍家を笠に着て亭主を尻の下に敷いたケースが多かったそうですが、彼女は、控え目で、嫁いだ家を第一に考える女性でした。

 そして、亡き前夫・福島正夫との連れ子は、津軽家家老の婿養子となり、岩見直秀を名乗りました。 

 しかし、残念ながら、津軽家に嫁いだ満天姫には子ができませんでした。

 このため、満天姫は、辰子姫が残した男の子を引き取り養育します。

 満天姫は、腹を痛めた子がいながら、石田三成の娘が産んだ子を育てねばならないという皮肉な運命に悩みましたが、津軽家のことを第一に考えての葛藤の末の決断でした。

 

★実子・直秀の意気込み

 その後、月日は流れ、満天姫は辰子姫の産んだ子を元服させて津軽信義を名乗らせます。

 そして、夫・信牧が寛永八年(1631年)に四十六歳で亡くなり、信義が藩主となります。

 

 しかし、ここで、満天姫の子・岩見直秀は自分の出自を意識するようになります。そして、滅んだ福島家の運命をいきどおり、また家康の孫であることを強く意識し出します。  

 そして、遂に、直秀は福島家を再興するために江戸に出ようと意気込みます。

 満天姫は、信義を育て上げた母として、津軽家を存続させることが自分の使命と悟ります。

 その満天姫にとって、津軽家の家老の婿養子となった直秀の福島家再興運動が、新藩主・信義の害となり、津軽藩の命取りになる危惧は十分に考えられます。

 このため、満天姫は直秀に自重を求めますが、直秀は聞き入れませんでした。

 

★満天姫と直秀の親子最後の別れ

 寛永13年9月24日、直秀は満天姫の制止を振り切って江戸に発つため、別れの挨拶に弘前城の本丸御殿を訪れます。

 そして、どうしても江戸に行くという我が実子に、満天姫は別れの盃を取らせました。

  しかし、その盃には毒が人っていました。31歳の直秀は胸をかきむしり、苦しさに拳を虚空に突き上げ、「母上」と叫びながら絶命してしまいました。

 

 満天姫はわが腹を痛めた子を絶命することで婚家である津軽家を守りました。

 そして、満天姫は藩主・信義に、自分の実弟の松平康久の娘・富宇姫を嫁がせ、津軽家が親徳川としての繁栄していくことを若い二人に託しました。

 

 最期に、満天姫は、寛永十五年(1638年)50歳で亡くなりました。

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