歴史上の人物(女性)

お船~上杉家を支え続けた直江兼続の妻~

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 直江兼続の妻の名を「お船」といいます。

 このお船、美貌に恵まれ、夫に負けないほど、英知があって度胸が据わっていました。

 一方、夫である直江兼続も、よく言われているとおり、背が高く美男子で、豪胆にして弁舌がさわやかな男ですから、この二人は似合いの夫婦であった訳です。

 今回は、このお船について、御案内していきます。

 

★直江兼続とお船の結婚

 兼続とお船の婚姻は、兼続が婿養子に直江家に入る形となりました。

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 兼続は、もともと薪役人の子息という低い身分の出身でした。

 景勝の母・仙桃院は、身分は低いけれども少年兼続の器量を見抜き、息子・景勝の近習に取り立てました。

 そして、上杉謙信は、少年であった景勝、兼続を可愛がり、その薫陶を受けて、義に厚い武将に成長していきました。

 

 兼続とお船は天正九年(1581年)に結婚しました。

 結婚当時、兼続が22歳で、お船は三つ年上の姉さん女房で、兼続が初婚であるのに対して、お船は再婚でした。

 

 お船の父・直江景綱は現在の新潟県長岡市にあった与板城の城主で、上杉家内紛の中で謙信の擁立に貢献し、軍事・行政両面にわたり謙信を支えた切れ者でした。

 この景綱に男の子がいなかったため、長尾信綱を養子に迎えてお船と結婚させました。

 このようにして直江家の養子となった信綱は、上杉景勝政権の中枢にありましたが、天正9年9月9日、春日山城で不慮の死をとげてしまいます。

 それは、尾館の乱の際の恩賞で、不利を受けたとして逆恨みされた儒者をかばって斬りつけられたという悲劇でした。

 お船は今朝、元気に登城した夫無言の帰宅に呆然として不幸のどん底へと叩きつけられたようでした。

 また、信綱とお船の間に子はなく、このままでは、直江家は断絶してしまいます。

 そんな絶望的な状況に、救いの手が差し述べられます。

  謙信を支えた重鎮の直江家が滅びるのは惜しいと思った景勝は、直臣の樋口兼続に「そなたは、名族直江家を相続してさらに大きくなれ」と命じました。

 このお似合いと二人の縁談は、このようにしてまとまったのでした。

 

 お船は、前夫を失った翌月に、主君の命令で兼続を新たな夫として迎えました。

 お船としては、前夫の匂いが残る屋敷での兼続との新婚生活に戸惑いも大きかったと思われますが、兼続のいたわりに癒されて、愛に満ちた家庭を築いていくのでした。

 

★兼続の活躍

 文武両道に秀でた兼続は、上杉家での立場は年々大きくなっていきました。

 そして、その資質を天下人秀吉も認めることになります。

 さらに、上杉家を越後から会津百二十万石に移封させると、その内の三十万石を兼続に与えました。

 このように、中央で活躍する兼続を支えて、お船はよく家を治めました。

 しかし、関ケ原の戦いのきっかけと作ったと言われている「直江状」に関する弁明と、関ヶ原の戦い前後で、上杉家が、東北地方での最上家、伊達家との戦いで反徳川のレッテルを張られたことに関する弁明で、窮地に立たされます。

 

 そして、徳川家康に対して、上記弁明のために江戸に赴く夫を、お船は内心「今生の別れ」と思いつつ、励ましの笑顔で送りだします。

 ここで、兼続は主君景勝の罪までもかぶって上杉家を守ろうとします。

 主君をかばっての正々堂々と、理論整然とした弁明に、徳川主従は感銘を受けます。

 この結果、景勝も兼続も許されます。しかし、上杉家は兼続の所領だった米沢三十万石だけに減らされることになりました。

 

★夫亡き後の上杉家を盛り立てる

 お船は兼続との間に一男二女をもうけました。しかし、残念ながら、その子どもたちは、ことごとく二十歳前後で亡くなり、結局、夫婦二人になってしまいました。

 さらに、お船が63歳の時に、兼続にも先立たれてしまいます。

 このため、剃髪して貞心尼と号しました。

  しかし、その後、お船は生きがいを見つけます。

 それは、主君景勝の嫡子・定勝の養育でした。

 景勝の正室は、武田信玄の娘の菊姫でしたが、子どもができないまま、慶長九年(1604年)他界します。

 その同じ年、側室の四辻氏が定勝を産みますが、すぐ他界しました。

 このため、正室も生みの親もいない定勝の養育を任せられたのがお船でした。

 また、上杉家の江戸屋敷が類焼したときは、鱗屋敷と呼ばれた直江邸で、一緒に生活もしました。母を知らぬ定勝には、お船を母親のようでした。

 

 その後、定勝が父・景勝を継いで米沢二代藩主となると、お船に三千石を与えました。

 このような高禄をもらった女性は秀吉の正室おね、大奥を確立した春日局しかいません。

 また、お船は、藩内の政治についても相談を受けて、それに的確な判断を下しました。

 さらには、お船は、手明組という40人の士を統率する将にもなって、群臣から崇敬の念をもって見られたといいます。

 

 そして、お船は、先立たれた兼続の意志を継ぎます。蔵書家だった兼続は、その蔵書を活字化していました。このため、その志を継いで活字本『文選』を再刊しました。

 また私財を投げうり、寛永6年(1629年)、高野山の金剛峯寺に楼閣喩祇塔を建立しました。

 その後、お船は81歳(寛永十四年没)まで長生きをしました。

 子どもには先立たれましたが、その最期を定勝がみとりました。

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