歴史上の人物(女性)

お大の方は天下人・家康の母

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 お大の方とは、徳川家康の生母ですが、非常に苦労の絶えない人生を歩まれています。

 家康の父・広忠とは、家康が3歳のときに、御家の事情で離縁させられます。

 この時、お大の方は、離縁させられる苦悩、更に家康と離ればなれにならなければいけないショックから病気となり寝込んでしまいました。

 また、今川家に人質に取られるはずの当時6歳の家康が、今川家の配下・戸田氏の裏切りにより、永楽銭百貫文で織田家に売り飛ばされてしまいます。

 音信不通でそれぞれの生活を送っている親子ですが、ここでもお大の方は心配し通しで、我が子家康に会いに行きたい気持ちを必死に堪え、事あるごとに使いの者を通して、衣類などを送りました。

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 後に、家康は家臣に対する情が深いと言われていますが、家康の情の深さはお大の方譲りかも知れませんね。

 そして、時は流れ、家康61歳、お大の方75歳のとき、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、親子二人で天皇に拝謁

 するなど、親孝行をしました。

 親子二人にとっては、きっと至福のときだったと思います。

 それでは、今回は、この天下人となった家康の生母・お大の方のご紹介をさせて頂きます。

★お大の方の生い立ち

 お大の方は、母・お富の方の連れ子として、家康の祖父・松平清康の子として育てられました。

 一方で、家康の祖父・松平清康にも先妻が産んだ嫡子・広忠(家康の父)がいました。

 つまり、再婚通しのお互いの連れ子として、広忠とお大の方は、血の通わないけれども、兄妹として幼少期を仲良く過ごしました。

★松平家の厳しい状況

  天文4年(1535年)、家康の祖父・清康は家臣に裏切られ他界します。

 ときに、広忠はまだ十歳にすぎず、お大も八歳でした。

 松平氏は広忠で八代目ですが、松平族党はこの幼い嫡子・広忠を守って、西からの織田信秀、東からの今川義元の脅威にさらされされることとなりました。

 そして、ついに信秀の侵略を受けて岡崎城をもちこたえられず、広忠は家臣団と流浪し、一年半後にやっと岡崎城に戻りました。

 この間に、お大の方は、亡き実父の城であり、腹ちがいの兄がいる水野信元の刈谷城に戻って生き延びていました。

★お大の方と松平広忠の結婚

 広忠が16歳、お大の方が14歳のときに、二人は結婚しました。

 幼き頃より兄妹として育った二人の結婚には、お大の方の母・お富の方の意思が働いていました。

 また、三河に生きる弱小領主の松平と水野両家が、織田、今川の東西からの圧力の中で共存していくための、政略結婚の意味合いも強かったものと思われます。

 そして、結婚の翌年、お大の方は、竹千代、つまりのちの家康を授かります。

★兄・水野信元の裏切り

 しかし、家康が3歳の時、広忠とお大の方の両家の事情による破局が訪れてしまいました。

  このころ、お大の方の夫・松平広忠は、今川義元の配下についていましたが、お大の方の腹違いの兄・水野信元は広忠を裏切り、織田信秀に寝返りました。

 このため、広忠が水野家から嫁いだお大の方を妻としておくことは、今川氏との友好上、許されなくなったのでした。

 17歳で突然、離婚を言い渡されたお大の方は、悲しみのあまり病気になってしまいました。

 そして療養後、お大の方は、泣く泣く岡崎を離れ、実家へ戻ることになりました。

 しかし、お大の方が何よりも気掛かりなのは幼き家康を残していくことであり、今後の松平・水野両家の間のもめごとを少なくするために、自分に出来ることは何かを考えるのでした。

 それが、再びわが子家康と一緒に暮らすことができる近道だと信じました。

★お大の方が両家のために出来ること

 とうとう、お大の方が刈谷城に戻る日がきました。

 お大の方は、岡崎の二十数名の家来に付き添われての進行でした。

 そして、刈谷城手前、ニキロほどまで来たとき、お大の方は家来に「あなた方はここより引き返すがよい」と諭しました。

 しかし、家来てしても、広忠に刈谷城まで案内するよう命令されているのはもとより、失意にふけるお大の方を置き去りにするのは良心の呵責があります。このため、「あくまでも城まで届けるのがわれらの役目」と受けつけませんでした。

 これに対して、お大の方は、「わが兄の信元は短気で勇猛な人。岡崎の士が送ってきたと知れば、必ずや兵を出して攻めかかるでしょう。そうなればそなたらは小勢、敵地での勝ち目はありませぬ。われはいま広忠殿と別れてきましたが、残してきた家康はわが子、兄の信元とは伯父と甥の間柄。

 両家がいつか和睦のときもあるであろうに、ここでそなたらが討ち果たされでもしたら、長く遺恨が残ります。この道理をわきまえて、急ぎ引き上げてくだされよ」と、説ぜつと依頼しました。

 これを聞いた家来たちはお大の方の強い思いと、その心を知り、輿を刈谷領内の農民にまかせて、急ぎ領外へ脱出しました。

 そして、お大の予感は的中しました。お大の輿を見ると、水野の武装兵が一斉に出てきて、岡崎の家来を討とうとしました。

 しかし、お大の方が、「岡崎の家来は領外に去ったから追っても無駄だ。」と言ったため、追いかけるのをやめました。

 このように、お大の方の両家の衝突を避けたいという強い気持ちと、思慮分別のある言動が争いごとを避けたのでした。

★お大の方の再嫁

 実家にもどっていたお大の方は、異母兄・信元の命によって、織田信秀に与する尾張知多郡の阿久比城(愛知県阿久比町)の城主・久松佐渡守俊勝と再嫁しました。

 もちろん、これも政略結婚でした。

 そして、お大の方は、久松家で三人の男子と、四人の女子の合計七人の子に恵まれました。

 しかし一方で、お大の方は、生き別れた家康を忘れることはありませんでした。

  一方で、岡崎城にたった3歳で残された家康を、母代わりとなって育てたのは、清康の妹で、夫が松平氏に背いたため、離婚して岡崎城に戻っていたお久でした。

 つまり、婚家と実家が相反する道を選んだため、離婚となったお大の方とお久の方は、同じ苦しみを知る女性であった。

 家康は、このお久の方の暖かい愛に育まれます。

 後日、家康はこのお久の方に感謝して一寺を建立し、厚く菩提をとむらっています。

★家康が織田家に売り飛ばされる

 家康が6歳になったとき、今川氏の人質として岡崎城を出ることになりました。

 しかし、岡崎から今川氏の駿府に送り届ける役割を受けた今川氏傘下の戸田氏の裏切りにあい、家康は永楽銭百貫文で織田信秀に売られてしまいました。

 家康にとってのこの不幸が、生き別れになった母の愛を感じることになりました。

 織田信秀は、広忠に息子を返してほしければ、今川氏と手を切れと迫ったが、広忠は子どもへの愛情にひかれて今川を裏切ることはできぬと拒否した。

 このため、織田信秀はいつか使えるとして家康を熱田の家臣に預けたのち、名古屋の万松寺に預けました。

 このため、お大の方の住む阿久比城と、熱田、名古屋は近く、しかもお大の方の夫は織田家に味方していたので、お大はひそかに人を遣わし、家康がどんな生活をしているかを見にやらせました。

 本当であれば、自分が行きたかったのですが、立場上、それはできませんでした。

 しかし、お大の方は、季節ごとに着物を送り、めずらしい果物や菓子が手に入れば届けさせるなど、家康の子供心に安らぎを与えるのでした。

★家康が駿府で人質に

  家康の父・広忠は、24歳の若さで、祖父・清康と同様に家臣の裏切りにあい没します。

 その後、家康は二年して織田家の人質から解放されますが、今度はすぐ今川家の人質となり、十九歳までを駿府で過ごすこととなりました。

 このとき、家康は、何かと今川氏の了承をとりつけてくれる祖母・お富の方の存在を心強く思うのでした。

 お富の方は、嫁いで身動きならぬ娘のお大の心をくみ、人質生活を送る家康を側面から支えました。

★徳川家康とお大の方の対面

 そして、ついに、お大の方が家康と対面する日がやってきます。

 それは、家康が、上洛をめざす今川義元の先鋒として、尾張の大高城(名古屋市緑区)に兵糧を運ぶ途中、阿久比城を訪れ、十六年ぶりに夢にまで見た母と対面するのでした。

 お大の方の夫・久松俊勝は織田方でしたが、妻の願いを聞き届け、家康が密かに城を入るのを許したのでした。

 対面したとき、家康とお大の方は嬉し涙にむせび、同席した夫・俊勝も感動しました。

 また、お大の方は、夫・俊勝との間にもうけた三人の男子を家康に紹介しました。家康は、この初対面の弟たちに歩みより、ともに軍功をたてようと励まし合いました。

★今川義元の戦死

 家康が、お大の方を訪れてわずか二日後に、家康の運命を大きく変える出来事がありました。

 今川義元が、織田信長の奇襲に受けて、桶狭間の戦いで亡くなったのでした。

 このため、今川勢は駿府に引き換えし、今川勢がいた岡崎城も空き城になりました。

 したがって、家康は自分が生まれた岡崎城に労せずして戻ることができました。

 家康にとって、生母との再会はこのように幸運をもたらす第一歩となりました。

★家康とお大の方との天皇拝謁

 その後、時代は流れて、家康は天下人の道を歩いていきます。

 そして、家康は、関ヶ原の戦いの後、この母お大の方を京に招きました。

 このとき、お大の方は75歳、家康も61歳になっていました。

 そして、家康は、この老母と後陽成天皇に拝謁しました。

 お大の方は、この三か月後に伏見城で永眠しますが、家康が天下人となったのは、一にも二にも長生きのお陰だと言われてます。

 家康の長生きは母譲りだったのかも知れませんね。

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