歴史上の人物(女性)

義姫は我が子伊達政宗になぜ毒をもったのか?

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 伊達政宗が、実母に毒をもられたというのは有名な話ですね。

 母にしてみれば、片目のない政宗よりも、弟・小次郎の方が可愛かったなどという話を聞いたことがあります。

 しかし、実際、母は、当時天下統一を目前にした豊臣秀吉の怒りから伊達家の家名を存続させるために毒をもったのでした。

 今回は、家名存続のためにわが子政宗の毒殺をはかった悲しき母・義姫について、御案内します。

 

★義姫の生い立ち

 義姫は天文17年(1548年)最上義守の娘として山形城に生まれ、17歳のときに、米沢城主で当時21歳であった伊達輝宗に嫁ぎます。

 そして、その米沢城で、義姫は永禄十年(1567年)政宗を産みました。

 義姫は、政宗を身ごもる前に、文武の才と忠孝に厚い男子の誕生を湯殿山に祈らせると、夜の夢に白髪の僧が立ち、宿を胎内に借りたいと請い、生まれたのが政宗だったとの伝説があります。

 しかし、政宗は5歳のときに疱瘡を患い、右眼を失明してしまいます。

 そして、この劣等感が、政宗を荒っぽい性格にしていったと言われています。

 一方、義姫は、荒っぽい性格の政宗に愛をそそぎながらも、二男・小次郎の誕生によつて、心は次第に政宗から離れていきました。

 

★伊達政宗が家督を継ぐ

 一方で、父・輝宗は子どもの教育に熱心で、名僧、虎哉宗乙らを招き、また、米沢八幡社の神官の子だった片倉小十郎景綱の才能を見ぬいて、政宗の側近にしました。

 そして、輝宗は政宗の器量を買い、政宗が18歳のときに家督を譲ります。

 これにより、伊達家は若き政宗の支配するところとなりました。

  政宗は政略結婚によって親戚となつた隣国にも、妥協を許さない戦いを挑んでいきます。

 義姫は、いがみ合う我が子・政宗と、実兄・最上義光の間を心配し、天正十六年(1588年)、義光が庄内に侵入し、政宗と国境で睨み合った際に、両軍が対決する国境山上に、輿で乗りつけました。

 そして、義姫は、「両軍が戦うなら、まずわれを斬れ」と座り込んでしまいました。

 やむなく両軍は兵を引き、八十日後に両家の和議を成立させたという逸話を持っています。

 このように、義姫は、実家と婚家が戦うことのないよう、体を張って阻止する気丈な女性でした。

  一方、政宗の父・輝宗は、領土を拡大するよりも、中央の情勢に心を砕き、信長や家康とバイプをもつことに熱心な武将だったところをみると、義姫が嫌悪感を持つ政宗の好戦的な気性は、間違いなく母・義姫の血を受けついだものだと思われます。

 

★羽柴秀吉の命令を無視する伊達政宗

 しかし、義姫の我が子政宗に対する感情は、嫌悪感から恐れに変わってきていました。

 最近では、次々と戦いを引き起こした結果、領土を次々と拡大していき、ついには、会津の名門、声名氏をも滅ぼしてしまいます。

 それは、豊臣秀吉が、全国統一をめざし、争乱がつづく奥羽での私戦を禁じていた中での出来事でした。

 義姫は、山形城主で実兄の最上義光から、秀吉の情報をつかんでいました。

 そして、秀吉の命令を無視して、暴れまわる24歳の若き政宗は、秀吉の求めに応じ小田原に参陣しても、切腹を命じられ、伊達家は取り潰されるのが落ちだと知らされました。

 義姫は、この実兄の忠告に身震いします。このままでは、伊達家が取り潰されてしまうのではないか?

 それは、義姫だけでなく、家臣団も同じ危惧感を持っていました。

 秀吉に関する情報は、上方から伝わってきます。四国・九州の平定を成功させ、天下統一を目の前にしている秀吉に勝てるわけがありません。

 義姫は、政宗の好戦的な態度に不快感を示す実兄・義光の忠告が、決してオーバーではないことを、義姫と家臣団は察知し、政宗の11歳年下で13歳になる小次郎が当主になれば、伊達家の安泰を秀吉が保証すると思ったのでした。

 

★毒をもる義姫

  以上のような理由で、義姫は伊達家が取り潰されることを避けるため、家名を存続させるために、政宗に毒をもったのでした。

 それは、政宗が、秀吉に命じられていたにもかかわらず、2か月間無視して、ようやく小田原城攻めに参陣する直前に、義姫の館に招きを受けたときでした。

 その館は、会津黒川城にあった義姫が暮す西側の館でした。

  饗宴の席で、毒味をする膳番が血を吐いて死んでしまいます。

 毒は油揚げ菓子に入っていたとも、ナマスだったヒもいわれています。

 実際、その毒の膳を政宗も少々食してしまい、腹痛に襲われてしまいます。

 このため、政宗は、急いで自分の館に逃げ帰りました。

 

★伊達政宗が弟・小次郎を問い詰める

 幸い、政宗の症状は軽く、命に別状はないようです。

 そして、政宗は弟・小次郎を詰問します。すると、母がやったと白状しました。

 たった一人の弟に罪はありません。しかし、母を斬るわけにはいかず、かつ、母も家臣団もが、おとなしく、性格のやさしい小次郎が当主になることに期待していることを知ります。

  「許せ!  小次郎!」、政宗は涙ながらに叫ぶと、母が最も愛した小次郎を成敗してしまいました。

 

★政宗に城を追い出される義姫

  政宗は、自分を毒殺しようとした母・義姫を城に住まわせるわけにはいきませんでした。

 そして、すぐに最上氏から義光の命を受けた加藤掃部左衛門清次という人物が迎えにきました。

  しかし、義光とて、政宗の手前、妹・義姫を山形城に入れる訳にもいかず、山形城から南4キロの南館の下屋敷に住まわせました。しかし、そこも目立つと、出羽丘陵の麓、城から西へ10キロほどの村木沢村悪戸に、掃部左衛門に屋敷を与え、面倒をみるよう命じて、裏手に義姫の館をつくった。義姫が43歳のときの出来事でした。

 

   義姫は数人の侍女と掃部左衛門の一族にまもられて、日々を送る。政宗が秀吉の怒りをかわし、家康の時代をも上手に生き、東北の覇者として、仙台城を居城にしていることを風のたよりに聞きながら、寂しく余生を送ります。いまも掃部左衛門の子孫の家に残っている義姫愛用の横笛は、悲痛な義姫の心情を想像させて哀れに見えます。

 

 その後、政宗と義姫は、会うことはありませんでしたが、一応の交流はあったようです。

 政宗が、朝鮮出兵のとき、義姫は政宗に山形から遠征軍の費冊にと金子を送っていますし、政宗も母のために朝鮮木綿を届けています。

 

★伊達政宗が母を許した日

 そして、政宗は、母・義姫と本格的な雪解けの日がやってきます。

 義光の死後、最上家は元和八年(1622年)、内紛により取り潰されて(のちに復活)しまい、母・義姫は、住むべき場所を失ってしまいます。

  義姫は「今度ここもと潰れはて、親類一族もみなみな行き方なくなり申し候。わが身一人何のわき前もなく、ぜひぜひ徒はだしにても政宗の国の端へもころび入り申し候はん」と、政宗に泣きつきました。

 このとき、義姫はすでに75歳、政宗も56歳になっていました。

 

  政宗は喜んで母を仙台に迎えます。それは、毒をもってから三十二年の歳月が流れていました。

  政宗は母を仙台城に迎え、また体を気づかって、少しでも気温のあたたかな場所をと探し、城の南東4キロほどの地に住まわせました。           

  義姫はこうして政宗のやさしさの中で、76歳で亡くなりました。

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