歴史上の人物(女性)

督姫は幸運の女神

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 督姫とは、徳川家康の二女ですが、関ヶ原の戦いに家康が勝利すると、再嫁先の池田家に興隆をもたらします。

 今回は、一度は北条氏に嫁ぎ、北条氏滅亡により失意のドン底にいた督姫が、池田家に嫁ぎ、池田家に幸運をもたらすお話についてご紹介します。

★督姫の生まれ

 督姫は、家康の二女として生まれます。

 彼女は家康二十四歳のときの子で、母を西郡局といい、母系をたどると祖母は今川義元の妹に当たります。

★織田信長亡き後の徳川家と北条家との取決め

 本能寺の変で信長が亡くなった後、旧武田家が所有していた甲斐の国主が不在になるという事態が生じました。

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  このため、甲斐との国境を接する家康と北条氏は争って甲斐に進出し緊張感が高まります。

 しかし、両者は和 議を結び、戦いを回避しました。

 この和議の結果、甲斐は家康が領有することになり、一つの条 件として、家康の娘が北条氏に輿入れすることが取決められました。

 このため、その翌年、家康の二女で十九歳の督姫は北条氏直に嫁ぐこととなりました。

 この婚姻は、前述のとおり、督姫の祖母は今川義元の妹に当たり、古くから、北条家は今川家と婚姻を繰り返していただけに、今川の血を引く督姫は、徳川 家からの実質的な" 人質" という性格を超えて、北条家の一 員として素直に受け入れらました。

 このため、督姫と三つ年上の氏直との夫婦仲は円満でした。

 しかし不幸にも男子が生まれず、娘を一人授かりました。

★北条氏の秀吉に対する反逆

 信長亡き後、時の流れは秀吉に味方し、世はまさに、秀吉の天下統一は目の前に迫りつつありました。

 この時代の流れの中、一旦は抵抗を示した家康ですが、最終的には秀吉に従属します。

 しかし、北条家の夫・氏直とその父氏政は、秀吉の身分の卑しいのを軽蔑して、最後まで抵抗を重ね、上洛を拒みます。

 これでは、秀吉は周囲の大名に対する示しがつかず、自らの関白という地位に基づき、天皇から北条氏討伐の勅を貰い受け、自らが先頭に立って小田原を攻撃します。

 ここで、家康は氏直が娘婿であることから、立場が微妙になります。

 このため、家康は北条家を説 得し、秀吉に帰順するように促します。

 そして、最後には、秀吉帰順に応じないなら督姫を返してほしいと迫りましたが 、父・氏政の態度は優柔不断で、小田原評定をして判断を先送りにしました。

 この間、秀吉軍は、次々と関東に広がる北条方の諸城を攻略していき、北条家にとって圧倒的に不利な状況となりました。

 そして、遂に北条家は降伏します。

 この戦いの要因と言われている父・氏政は切腹となりますが、秀吉は家康の娘婿ということで、夫・氏直を高野山への流罪として命を助けました。

★督姫の失意

 北条氏直は、一旦は、高野山に流罪となりますが、家康の口利きがあったのか、秀吉は直ぐに氏直を許し、天正十九年、差し当たり河内(大阪府)に一万石を与えます。

 そして、秀吉には、さらに加増して北条氏を復権させる意思があったと言われています。

 しかし、氏直は敗北による精神的衝撃から立ち直れぬまま病気になり、亡くなり、北条氏は断絶していまいました。

 このとき、督姫は二十七歳でした。

 また、それを追うように、唯一授かっていた一人娘の摩尼姫も亡くなってしまいました。

★督姫の再婚

 夫・氏直の死から三年、秀吉は督姫と池田信輝(恒興)の跡取りである輝政との婚姻を命じました。

 池田家は、徳川家とは因縁がありました。それは、小牧・長久手の戦いで、池田信輝と嫡子・之助、さらに は娘婿の森長可が、徳川軍に大敗して討ち死にしたことがありました。

 このため、秀吉は両者のしこりを解こうと、輝政と督姫を文禄三年(一五九四)に婚姻させたのでした。

 なお、輝政には中川家から迎えた妻がいましたが、これと離別し、督姫を迎えました。

 当時、輝政は三河吉田城(愛知県豊橋市)十五万石を領していましたが、池田家にとっては、小牧・長久手の戦いから10年が経っています。

 更に、家康が、豊臣政権下の最大の 実力者となっていることで、困惑よりも姻戚関係を結べる喜びのほうがずっと大きかったようでした。

 一方の督姫は夫氏直だけでなく、忘れ形見の 摩尼姫にも死なれて、失意の中におり、この再婚は北条家を忘れる再出発点となりました。

★督姫は幸運の女神

 池田家にとって、喜んで迎えられた督姫ですが、その後は、真に彼女は繁栄の女神となります。

 池田輝政も、関ヶ原の戦い前夜の、岐阜城に立てこもる織田秀信を落城させる活躍をしますが、何よりも、関ケ原の戦いで勝利した家康の娘婿として、播磨姫路五十二万石へ転封となります。

 一方、督姫は、北条家では男子に恵まれませんでしたが、池田家では忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興と五人もの男子に恵まれます。

 そして、その息子たちにも大禄が与えられて、池田家は、合計で百万石にもなり、輝政は西国将軍と呼ばれるようにもなりました。

★老女の言葉に反応する池田輝政

  このような、繁栄を誇った池田家ですが、ある日、徳川から従ってきた老女が督姫のいる前で、輝政に「御当家の栄えは督姫君の   御輿入れと、その御光によるものでございます」と言ってしまいました。

 すると即座に輝政が 、「いやそうではない。この輝政の軍功により督姫を妻にし、禄もふえたのじゃ。   妻の光などで決してないぞ」と叱り飛ばしたそうです。

 しかし、直後に、ひそかに老女を呼   んで「わが家の栄えは、実はそなたのいう通りだ。だが女は誉めればつけあがるもの。妻の前ではそんなことは絶対言ってくれるな。」と頼んだというエピソードが残っています。

★最後に

 現在の兵庫県姫路市の寺町には、法華宗の寺が多くなっています。

 これは、督姫が母・西郡局の影響を受けて法華宗に帰依し、輝政も督姫に従ったためだと言われています。

 古今東西を問わず、一般的に女性は子供を産むごとに逞しくなると言われていますが、督姫の場合は、それにも増して池田家の中で権勢のほどが偲ばれますね。

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