歴史上の人物(女性)

千姫の大坂城から生還したその後の人生は幸せだったのか

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 皆様は、千姫のイメージというと、どのようなものをお持ちですか?

 徳川家康の孫で、豊臣秀頼と結婚するために大坂城に嫁いできて、大坂夏の陣で大阪城が焼け落ちる前に助け出された姫、というイメージでしょうか?

 一方で、千姫には、希代の悪女「干姫伝説」というものもあり、淫乱美貌の干姫は、身分の上下を問わず、いい男であれば近寄って、あやしく誘って閨にひきこみ、一夜の情欲を満たすと、朝にはその男を殺して、屋敷の井戸に投げ込んだという伝説もあります。

 ただ、この「千姫伝説」は、徳川幕府をおとしめて、維新政府を正当化したかった、明治時代に意識的に創作された伝説のようです。

 本当の干姫は、いたって貞淑な女であり、徳川と豊臣の懸け橋になれなかった自らを悲しんで生きたという心やさしい姫でした。

 今回は、この千姫のお話について御紹介していきます。

★千姫の豊臣家への嫁入り

 干姫は、7歳の時に秀吉の遺言により、徳川家からさし出された人質同然に淀殿のいる大坂城の秀頼(当時11歳)に嫁入りしました。

 干姫の母は、淀殿の妹・お江だったから、それは従兄妹同土の結婚でしたが、秀吉が亡くなって勢いを増す徳川家から、落日の豊臣家に来た干姫に、姑・淀殿の目は厳しいものだったということが想像できます。

 しかし、千姫は19歳まで大坂城で過ごすことになりますが、干姫が碁盤の上にのっかり、秀頼が干姫の髪を小刀で切ってやる、いかにも仲の良い夫婦の姿が女中の記録にあります。

 このように、秀頼と千姫の夫婦仲はとても良かったそうで、若い二人のお互いの信頼感は高かったと言えます。

★大坂夏の陣にて

 そして、豊臣家が滅亡してしまう大坂夏の陣を向かえます。

 千姫は、戦いも終盤となり、大坂城が敵方の兵に囲まれたとき、秀頼や淀殿と死ぬ覚悟を決めていました。

 しかし、落城寸前、秀頼と淀殿の助命を家康に願いでるための使者として、城外に出されました。

 祖父である家康は干姫の生還を喜んだものの、秀頼と淀殿の助命は当然に認められずに悲しむ千姫に、父・秀忠からは「なぜ死ななかった」と叱られてしまいました。

  そして、この精神的なダメージは干姫を衰弱させてしまいます。

 その後、千姫は江戸へ帰って病の床につきました。

 家康は、豊臣家を滅ぼした翌年に七十五歳で亡くなりますが、その最後の手紙は干姫の病状を案じるものでした。

★千姫の再婚の二重の約束

 その後、病気も回復し、元和二年(1616年) 二十歳のときに、本多忠政の子・忠刻に再嫁します。

 しかし、この再婚には若干のトラブルがありました。

 元々、大坂夏の陣のとき、大坂城から家康の陣営に干姫を案内した坂崎出羽守に家康が干姫をやると約束しました。

 しかし、亡くなる前の家康を見舞った本多忠刻の母・熊姫が、干姫を是非に我が息子の妻にほしいとお願いしました。

 この熊姫は、家康の正室である築山殿との間に生まれた信康の娘であり、家康にとっての孫に当たるため、身内の熊姫に干姫を預ければ、干姫も心が休まり、幸せになってくれるだろうと思って了承したのでした。

 このため、結果として、千姫の再婚を二重に約束したことになってしまったため、坂崎出羽守が、その口約束の実行を求めて、干姫の嫁入りの輿を奪おうとする事件が起きてしまいました。

 この結果、事件を起こした責任をとって、坂崎家が断絶する羽目になってしまいました。

★千姫は姫路城へ移り住む

 再婚から1年後、本多家は西国の外様大名をにらむ探題的役割を担うため、十五万石で伊勢桑名から姫路に転封されました。

 そして、併せて、幕府はこの干姫に十万石という莫大な化粧料をもたせました。

 忠政は、この化粧料で姫路城の西の丸に忠刻の館として中書丸、干姫の館として下屋敷の武蔵御殿を建てました。

 その建物は、太閤秀吉が建築した京都の伏見城の御殿を移した華麗なものでした。

 そして、新しい夫・忠刻との日々の中で、干姫の中で少しずつ夫との愛も芽生えて、一男一女を授かりました。

★千姫の新たな悩み

 忠刻との間に一男一女を授かった干姫でしたが、女の子の勝姫はすくすく育ったのに、嫡男・幸干代は三歳で死んでしまいます。

 また、悲しいことに、このあと干姫はしばしば身ごもりましたが、流産してしまいました。

  干姫は、この悲しみを秀頼が嫉妬しているのだと思います。

 そして、千姫は、肌身離さず持ち続けていた秀頼の書いた「南無阿弥陀仏」の名号を伊勢神宮内の尼寺、慶光院に預けました。

 伊勢神宮は秀頼が生まれた際、秀吉がすべての産着を送り清め、その成長を願った所でした。

 そして、その秀頼の書いた「南無阿弥陀仏」の名号は、木像の観音像の胎内に納められ、尼の周清上人は干姫の気持ちを願文にしたためてくれました。

「播磨の姫君さま(干姫)にたびたび御子ができますのに、秀頼さまに御怨みの御心があるため、御子が亡くなられるのだと、占いに出ました。これもごもっともでございますが、どうか御怨みの御心を御引きして下さいませ。姫君さまに御子さまたちが生まれ、繁昌しましたなら、後世の菩提をも弔いいたします。どうか悔しい思い御あきらめ下さいませ。このために慶光院に秀頼さまをお祀り申し上げ、御神体(観世昔菩薩)に御自筆(南無阿弥陀仏の名号)を御納めいたし、末代までも代々の住持が御崇敬いたします。姫君さまに男の御子さまや御姫さまがたくさん生まれなさるよう、御守り下さいませ」

 しかし、残念なことに、干姫は嫡子を産むことはできませんでした。

 それどころか、結婚して十年目、干姫は三十歳で夫・忠刻に先立たれてしまうのでした。

★その後の千姫

 夫・忠刻に先立たれた干姫は、九歳の遺児・勝姫を伴って姫路を去り、江戸へ戻りました。

 このあと、干姫は、落飾して天樹院と号し、弟の三代将軍家光に庇護されて、竹橋御殿を与えられ、つつましくなお四十年を生き、寛文六年(1688年)70歳で亡くなりました。

 一方、忠刻を失って嫡子のいなかつた姫路の本多家は、弟の忠義が七万石で遠江掛川へ、甥の小笠原長次が八万石で豊前中津へ移されました。

 また、干姫の一人娘・勝姫は十一歳で鳥取城の池田光政に嫁ぎました。

 池田光攻は名君として、勝姫は賢婦人として、のちに池田岡山藩の始祖として、歴史に名を残こしました。

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