歴史上の人物(女性)

諏訪御料人に対する武田信玄の愛情と気遣い

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 戦国の武家の娘として生まれた女性は、時として、悲運な運命をたどるケースがあります。

 今回、御紹介する諏訪御料人は、自分の父親を亡きものとした武田信玄の側室になるという運命をたどるのですから、本人はどんな気持ちだったのかを考えると胸が痛みます。

 彼女は、とても美人でした。その美しさゆえ、信玄が側室にしたいと強く希望した時、彼女は、まだ14歳でした。

 これに対して、信玄の家臣団の中には、攻め滅ぼした家の娘を側室にするのは如何なものかと反対する意見もあったそうですが、信玄にはそれを超えた彼女に対する思いもあり、結局は側室となります。 

 そして、諏訪御料人は、武田家の跡取りとなる武田勝頼を生むことになるのですから、運命というのは分からないものですね。

 

★諏訪御料人とは

 武田信玄を主人公とした歴史小説・物語には欠かすことのできない諏訪御料人ですが、この名称は称そうで、本来の名前は不明です。

 このため、歴史小説・物語によっては、由布姫、湖衣姫の名で登場しています。

 

 彼女は、信玄によって滅亡させられた諏訪頼重の娘です。

 諏訪頼重とは、諏訪古代から諏訪地方の祭政を司った大祝家一族の流れをくむ武士団の家系で、上原郷を城下町として形成して、上原城を本拠としていました。

 また、諏訪御料人の母は、信州麻績地方を支配した麻績氏の出身でした。

 この麻績氏は、京の公家と交流があることから、京女を妻に迎えるものが多く、信州地方の山国の中で、麻績氏の女性たちは洗練されていると言われていました。

 諏訪御料人の母も、この京の都人の血を受け継ぐ女性だったので、美人といわれる諏訪御料人もこの流れを汲んでいたものと思われます。

 

★父・諏訪頼重と信玄の妹・禰々との婚姻

 諏訪頼重は、24歳で諏訪家の家督を継ぎます。しかし、諏訪一族内に内紛が生じてしまい、諏訪頼重の力量では一族を取り仕切るには力不足の状況でした。

 これに目をつけた信玄の父・武田信虎は、娘・禰々と諏訪頼重とを婚姻関係を結ぶことにより、武田家と諏訪家の同盟を図りました。

 この同盟によって、諏訪頼重は、武田家の力を借りて一族の不満を抑え込むことができました。

 また、この当時、麻績氏出身の諏訪御料人の母は既に亡くなっており、9歳だった彼女の継母になった禰々とは、たった4歳の年の差しかなく、母と娘というよりも姉妹といったイメージだったと思われます。

 

★武田家の内紛による影響

 この諏訪一族は、禰々の兄・信玄が、父・武田信虎を武田家から追放したことで、平穏を破られることになります。

 新しく武田家の当主となった信玄は、諏訪一族の反重頼派とともに、上原城を攻めました。

 この戦いは、諏訪重頼が、相次ぐ戦いと、冷水害に、諏訪地方の武士団も百姓も疲弊していて、人心は離れている状態であったため、八百の軍勢しか集まらず、結果は火を見るよりも明らかでした。

 このため、諏訪重頼は、居城の上原城から山伝いに約1キロ離れた史城の桑原城に逃れましたが、結局、武田軍に降伏します。

 捕らわれた諏訪重頼は、身柄を甲斐に送られ、東光寺に幽閉されます。

 諏訪重頼は、信玄の非情を憤りながら、「わが屍は諏訪の湖に沈めよ」と、遺言して自刃しました。

 そして、その妻・禰々もまた、自身の兄・信玄の仕打ちを恨んで、わずか16歳で頼重の後を追うように亡くなり、寅王も病死してしまいました。

 

★諏訪御寮人に対する武田信玄の想い?

 このような形で、家族を失ってしまった諏訪御料人は、当時14歳でした。

 しかし、とても美しい女性で、信玄は、とても気に入ってしまいます。

 この状況について、『甲陽軍鑑』には、「諏訪家は断絶したが、頼重の14歳になる娘は大変な美人で信玄公はこの娘を妻に望まれた。しかし、家老たちは、女人とはいえ滅ぼした頼重の娘は敵にあたるので、側室にするのは良くないと諌めた。ところが山本勘介は信玄公の意向が行き渡っている今、諏訪の者たちは信玄公のそばに頼重の息女がいるからと某略をたてることはありますまい。むしろ、側女になされるのを、諏訪の、人々は、喜び、その腹に御曹司が生まれれば、諏訪家が再興できると、望みをかけ、武田譜代の人々に劣らぬ働きをするでしょうといい、勘介のこの言葉によって、信玄は頼重の息女を召し置かれた」とされています。

 そして、諏訪御料人は、自身の父の敵・信玄の側室に強引にさせられたのでした。

 

★諏訪御寮人に対する武田信玄の気遣い

 側室となった諏訪御料人は、当初、信玄に対して憎しみの感情が強かったそうですが、やがて、信玄の子・武田勝頼を出産し、また、信玄の様々な心遣いにより、その感情は愛情へと代わっていきました。

 しかし、一方で、諏訪御料人は病にかかってしまい、10歳の勝頼を残りして、25歳の若さで他界してしまいました。

 このため、信玄は、諏訪御料人を中興開基として、信州高遠に建福寺を興じました。

 そして、17歳で諏訪家の名跡を継ぎ、高遠城主となった勝頼は母の寺を手厚く保護しました。

 

★武田勝頼の名前の由来

 諏訪家の名跡を継いだ勝頼は、諏訪氏の通字である「頼」を名乗り「諏訪四郎勝頼」とします。ちなみに、武田家の通字である「信」を名乗っていませんが、これは信玄の諏訪家及び亡き諏訪御寮人に対する配慮であると思われます。(なお「勝」は信玄の幼名「勝千代」からの継承。)

 

 その後、武田家の内紛等により、武田家の当主となった勝頼は、武田勝頼として周囲の大名に君臨しますが、「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に敗れて以降、急速にその勢力を落としていくことになりました。

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