歴史上の人物

明石元二郎は日露戦争を勝利に導いたスパイ

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★日本が世界の強国を相手に戦って勝った戦争

 日本の歴史上、日本が世界の大国との戦争で、圧倒的に不利な戦力の中で勝ったということが2回あります。

 一回は鎌倉時代の元寇、もう一回は明治時代の日露戦争です。

  元寇の場合は、14万人という圧倒的多数な敵方に対して、防塁を張り巡らすという十分かつ周到な用意をして敵方を上陸させない戦法と、夜間になると暗闇に紛れた小舟による夜襲攻撃をしつこく繰り返すことによって敵方の戦意を喪失させたところに、大型台風の到来によって敵方のダメージは決定的となったというものでした。

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 そして、もう一回の日露戦争は、兵力差約二倍、国力差約八倍という圧倒的な戦力差のあるロシアに対して、「速戦即決」つまり短期決戦で臨み、ロシアが軍事力を極東に集める前に攻撃し、早期講和に持ち込むという戦略が功を奏したと言われています。

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 しかし、この日露戦争の勝利には、当時の不安なロシア政情を煽りまくった「一個師団一万人にも匹敵するスパイ・明石元二郎」の存在が欠かせないと言われています。

 ちなみに、明石が、ロシア政情を煽るために使ったお金は、国家予算約2億3,000万円の内100万円で、今の貨幣価値に直すと400億円以上と言われています。

 さらには、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」といって称えています。

今回は、この日露戦争における明石元二郎の活躍について御案内していきます。

★日露戦争の原因と当時の日本の国力

 この当時、ロシアはもう既に広大な国土を有するヨーロッパ屈指の大国でした。

 そして、ロシアは、更なる強国化を図るために南下政策を進め、中国や朝鮮半島に侵出を開始し始めます。

 一方、日本は、江戸時代の末期から、ロシアの南下政策がこのまま進行してくると、日本まで支配下に置かれてしまうのではないかということを懸念していました。

 このため、日本は、ロシアが侵出してくる前に、朝鮮半島や中国の権益を奪取してしまおうと侵出を始めます。

 こうして、日本とロシアの国益は当然のように対立し、戦争は不可避となります。

 しかし、当時の日本は、念願だった不平等条約を解消して、ようやく国際社会に認められはじめた新興の小国に過ぎませんでした。

 したがって、誰もがロシアの圧倒的優位を予想していました。

 ところが、フタを開けてみれば、日本は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに撃破するなど大健闘します。

 結局、戦争は日本の勝利で終わったのでした。

 では、なぜ、当時は鎖国を解いて半世紀もたたなかった日本が、ロシアという強国を相手に勝つことができたのでしょうか?

★明石元二郎の日露戦争における役割と日本勝利の要因

 日露戦争における日本の勝利の要因はいくつかあります。

 その中の一つに、ロシア国内が政情不安であったことも勝因の一つです。

 そして、明石元二郎は、ロシアの政情不安に付け込み、ロシアの革命運動を煽りました。

 この当時のロシアは、社会主義革命の機運が高まり、首都サンクトペテルブルクで政府当局による労働者虐殺事件(「血の日曜日事件」)が起こるなど、政治が不安定になっていました。

★明石元二郎の日露戦争での具体的な活動

 明石は、明治・大正期の陸軍軍人です。

 日露戦争では、東郷平八郎や乃木希典のような表舞台には登場しませんが、ロシア公使館付の駐在武官として諜報活動に従事し、ロシアの革命運動を煽動していました。

 そして、明石の活動は、当時の反帝政ロシアを取り巻く環境の機運にも乗り、のちに「戦場での一個師団一万人にも匹敵する」と評されるほどの大活躍を見せたのでした。

 

  明治三十五年(1902年)、ロシア公使館付でサンクトペテルブルクに赴任していた明石は、参謀本部からロシア本国を混乱させるための謀略工作を命じられます。

 このため、外国語が得意な明石は、ドイツ語、フランス語、英語を駆使して情報収集にあたり、それを日本に送りました。

 一方、この当時、ロシアの国民は、皇帝の圧政のために生活が困窮しており、不満を募らせていました。

 そして、文化人や学生を中心に、政府と軍部に対する怒りが限界に達していました。

 また、ロシアに侵略されたポーランド、フィンランド、コーカサス諸国などが独立の機 会を狙っています。

 明石は、命じられたロシアに関する情報収集活動の中で、ロシアは国力、兵力ともに世界レベルにあるものの、反面、皇帝の圧政に苦しめられている国民とロシアに支配された国々の怒りが頂点に達しており、これらの反政府活動、独立運動をうまく利用すれば、強国ロシアに対してかなり大きなダメージを与えられるということを実感するのでした。

 このため、明石は、日露戦争がはじまると直ちにスウェーデンに移り、ストックホルムを拠点に行動を開始し始めます。

 その活動内容は、ヨーロッパ各地の反帝政ロシア勢力に接触を開始し、資金援助を行いながら革命工作を推進するというものでした。

 そして、反帝政ロシアにおける時代の流れの中で、明石のはたらきは確実に実を結んでいき、ロシア国内では帝政の廃止、立憲体制と自由主義への移行を求める学生のデモや、労働者のストライキの頻度が増していったのでした。

★日露戦争の日本勝利に確実に追い風となった「血の日曜日事件」

 次いで、明石は、明治三十七年(1904年)十月、ヨーロッパ各地をまわって反ロシア政府勢力を集め、パリで連合会議を開催します。

 この明石主催の連合会議により、各地の反政府勢力の活動が一本化され資金分配がなされると、ロシア各地で軍隊の出征妨害、反戦デモや要人の暗殺が相次ぐなど、社会不安が更に拡大していきました。

  そして、このような社会不安の増大は、更に大きな事態を呼び起こします。

 明治三十八年(1905年)一月二十二日には、あの「血の日曜日事件」が勃発します。

 この事件は、数万人の民衆が皇帝に労働条件の改善、帝政廃止、戦争終結の請願をするために宮殿に向けてデモ行進を開始したことに始まりました。

 このデモ行進に対して、ロシア政府は軍隊を動員して鎮圧にかかりましたが、押さえ込むことができません。そして、数万人のデモ隊は宮殿前広場まで来たところで、軍隊の発砲によって粉砕され、多数の犠牲者を出す大惨劇となりました。

 この「血の日曜日事件」は、民衆側にしてみれば、皇帝に救いを求めて集まった人々を軍隊が射殺するという事件でした。

 そして、この事件は、たちまちロシア全土を揺るがし、ストライキがますます拡大していきます。さらに、ロシア帝政体制批判に対しても至るところで起こったのでした。

★日露戦争におけるそれぞれの対戦での日本の勝利

 一方、日本軍は、陸軍、海軍ともに対戦で勝利をしていきます。

 これは、当時の日本は、ようやく国際社会に認められはじめた新興の小国でしたが、国内での富国強兵政策の効果により、軍隊の質は非常に高いものでした。

 その質の高さは、明治政府樹立から四十年弱の間に、世界のどの国と比べても遜色のないレベルの軍隊をつくり上げていたことによるものでした。

 そして、その成果として、明治三十八年(1905年)一月に旅順を攻略、同年三月に奉天の会戦でロシア軍を撤退させ、同年五月に日本海海戦でロシア軍の誇るバルチック艦隊を撃滅させるなど、日本軍優勢の状況が続きました。

★ポーツマス条約をロシアが受け入れ

 このような日本軍優勢の状況において、日本はアメリカに戦争の中立の友誼的斡旋を申し入れます。

 ちなみに、国力、兵力としてロシアより劣勢であった日本は、戦争を始める前より、戦争期間を1年として、開戦当初に先制攻撃を行って戦況が有利な間にアメリカに仲裁を求めようと考えていたため、この中立の友誼的斡旋は予定の行動でした。

 そして、アメリカでポーツマス会議が開催されます。

 会議開催当初、ロシアは強気な発言が目立ち、「たかだか小さな戦闘に負けただけ。戦争の継続も辞さない。」としていました。

 しかし、ロシア側の本音は、反帝政ロシアを取り巻く環境は、「血の日曜日事件」以降、かなり厳しく、デモ、ストライキが頻発しており、早く戦争を終わらせたいと考えていました。

 こうして、会議の中での交渉の結果、

・ロシアは満州及び朝鮮からは撤兵すること、

・ロシアの樺太の南部を日本に割譲すること

という条件で交渉は締結され、日本は辛うじて戦勝国となったのでした。

 以上のような経緯で、新興の小国・日本は、大国・ロシアに勝利したのですが、このポーツマス条約での締結はロシアの政情不安があってこそのものでした。そして、その功績は、明石元二郎の革命工作の影響がかなりありました。

 ですから、前述のとおり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世をして、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」という賞賛があるのだと思われます。

 日露戦争勝利の功労者というと、東郷平八郎、児玉源太郎、大山巌、乃木希典といった面々の名前があげられますが、明石元二郎もその功労者の一人だと言って間違いないものと思われます。

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