江戸城の本丸には銅の塀で仕切られた一角がありました。
その場所は、大奥と呼ばれ将軍家の血統を絶やさぬために千人もの女性が生活をしていました。
当然、千人もの女性が一緒に生活するとなると、そこには将軍の寵愛と権勢をめぐる愛憎絵巻が展開されていました。
そして、そんな大奥で前代未聞の一大スキヤンダルが「絵島生島事件」でした。
それでは、今回はこの「絵島生島事件」についてご案内します。
★絵島と生島新五郎が羽目を外した「絵島生島事件」の概要
正徳四(1714年)、7代将軍・徳川家継の幼少時代に大奥で実質的な采配を振るう立場にあったのが、絵島という女性がいました。
この絵島が、家継の生母・月光院の名代として墓参りに行った帰りに、木挽町にある山村座という芝居小屋に行きました。
そして、その山村屋でイケメンで人気の役者・生島新五郎の芝居を楽しみ、その後は、彼を招いて茶屋で宴会を行いました。
しかし、絵島は羽目を外してしまい、午後四時の門限に遅れてしまいます。
このため、この絵島の芝居見物と茶屋での宴会が江戸城中に広がってしまい、絵島は勿論、生島新五郎を始めとする山村座も取調べを受けてしまうことになりました。
その結果、絵島は門限に遅れたこと、芝居見物で羽目を外したこと、生島と密通したことなどを罪に問われ、信州・高遠への流罪となり、27年間に渡って幽閉され続けました。
さらに、関係者およそ千五百人が何らかの罪に問われたのでした。
★絵島の処罰が重すぎる?
前述のような「絵島生島事件」ですが、この種類の事件にしては、問われた処罰が余りにも重過ぎるのではないかとも思われます。
しかしながら、この処罰の背景には、大奥の中での派閥争いということが関係していると言われいます。
★大奥の中での派閥間闘争
当時、大奥では7代将軍・家継の生母である月光院の派閥と、六代将軍・徳川家宣の正室である天英院の派閥が権力争いを繰り広げていました。
そして、この争いに新興勢カとして台頭してきた側用人・間部詮房と、徳川家に古くから仕える譜代の重臣たちの争いが加わり、「月光院派・間部詮房VS天英院派・譜代の重臣たち」という対立の構図が出来上がっていました。
幕閣では、間部詮房が権力を持っていましたが、譜代の重臣たちも天英院派と組んで反撃の機会を狙っていたのでした。
そして、そんなときに、月光院派の主要人物の一人である絵島の門限破りと芝居見物というハレンチが生じたのでした。
反撃を狙っていた天英院派と譜代の重臣たちは、このような機会を見逃すはずはありません。
チャンスとばかりに、事を大げさにした上で、絵島を標的に一気に月光院派の一斉排除を行い、このような重い処罰になったと言われています。
そして、実際にこの事件を境にして、大奥の実権は、完全に天英院派に移ったのでした。
★絵島の最期
この事件により、絵島は前述のとおり信州・高遠に流罪となり、亡くなるまでの27年間という長い年月を幽閉されて過ごすことになるのでした。
絵島としては、本当に辛かったでしょうね。
なお、現在は、高遠城址公園に隣接された伊那市立高遠町歴史博物館に、絵島が幽閉された建物が復元されて「絵島囲み屋敷」として公開されています。