歴史上の人物

豊臣秀頼は鹿児島で生きのびて、子孫は天草四郎になった?

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★豊臣秀頼の最後を見届けた者はいるのか?

 豊臣秀頼というと、徳川家と豊臣家の最後の戦いとなる大坂夏の陣で、母・淀殿と自害したとされています。 

 しかし、秀頼の死を見届け者はおらず、また、死体も結局見つからなかったため、「秀頼は大坂夏の陣で死んでいない」という、秀頼生存説があります。

 今回は、この「秀頼生存説」についてご案内します。

★豊臣秀頼は落城後、鹿児島まで逃走した?

 それでは、秀頼が生存していたなら、どこに逃げ延びたのでしょうか?

 諸説ありますが、多いのが、鹿児島まで逃走したという説です。

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 落城後、上方では、「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童歌が流行りました。

 さらに、フランス生まれのイエスズ会宣教師の「日本西教史」には、「母妻を伴って辺境の大名領地に落ち延びた」とあり、さらにイギリスの貿易商人のリチャード・コックスの日記には、「薩摩・琉球に逃げた」と記載されているのでした。

★雄藩・薩摩藩の存在感

 前述のとおり、秀頼が生き延びて、九州に逃げたとする説は、当時の人々の間で根強く信じられていたことが分かります。

 また、秀頼が薩摩に逃れたという説の背景には、関ケ原の戦いで西軍についた薩摩の大名・島津家の存在もあるようです。

 この背景には、 「大坂夏の陣が終わり徳川家の天下になったが、いずれまた、争乱が起きるかもしれない。自分たちが再び戦うときの旗頭として秀頼を持ち上げよう」と考えて秀頼をかくまったというわけです。 

★豊臣秀頼の子供・豊臣国松も生き延びたという説

 また、秀頼生存説は諸説あり、中には実子・豊臣国松を伴って逃げ延びたという説もあります。

 それは、豊後・日出藩(現・大分県)の藩主の末喬から聞いたとされる秘話で、秀頼が薩摩に逃げ延びる際に、実子・豊臣国松も伴っていたというものです。

 国松は大坂夏の陣のあと、潜伏しているところを捕らえられて処刑されたとされてますが、斬首されたのは身代わりの少年だったというものです。

 本物の国松は、日出藩に引き取られ、大成したというのです。

 そして、秀吉の正室・北政所の甥が、木下姓を賜って日出藩の初代藩主となりますが、その縁で国松は引き取られ、名を縫殿助と改めて立石(現・大分県)の領主になったとされているのでした。 

★豊臣秀頼が「島原の乱」に参戦していたという説

 さらに、長崎で見つかった別の史料によると、秀頼は長崎に逃げ延び、「島原の乱」に参戦したとされています。

 島原の乱の指導者として活躍した人物のなかに「羽柴天四郎秀綱」という者がおり、これが秀頼のご落胤だというのです。

 この人物の姓が「羽柴」であること、名前に「秀」の文字かあることが、単なる偶然だけなのか真相は分からないところです。

★豊臣秀頼の子孫は天草四郎という説?

 さらに、別の説では、島原の乱の大将であった天草四郎は、秀頼の子孫(子or孫)だと言われています。

 そして、天草四郎が用いた馬印は、豊臣家と同じ瓢箪だという理由は、このためだというのです。

 また、島原の乱の一揆には、旧豊臣方の浪人が多く加わっていました。

 天草四郎が、三万七千人の軍勢で立て籠もった原城は、一度壊されかけた城を修復した建物に過ぎず、激しい戦いに耐えられるものではありませんでした。

 その原城で、幕府軍十二万五千人以上を相手に三カ月もの間、互角に戦ったのは「豊臣家再興」の願いが一揆の原動力になっていたというのでした。

 なお、「島原の乱」は、御承知のとおり幕府軍が一揆を壊滅させ、原城に立て籠もった人々を皆殺しにして終了したのでした。 

★最後に

 以上のような諸説は、どれもしっかりとした根拠がある訳ではありません。

 しかし、以上のとおり、秀頼生存説というのは余りにも多数あります。

 この理由としては、日本史上の中で唯一、貧乏な百姓の子供が天下統一を成し遂げたという英雄・豊臣秀吉の子供であり、簡単に家康に負けてほしくなかったという民衆の願望もあるのだと思われます。

 しかし、仮に、秀頼が生き延びていたという確かな史料が発見されでもしたら、いいでしょうね。

 

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