歴史上の人物

豊臣秀吉に利用された三法師、織田秀信となってその後の人生

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 皆さんは、織田秀信という武将を御存知ですか?

 織田秀信というと、関ヶ原の戦い前に、岐阜城の戦いで福島正信、池田輝政の猛攻撃にあい、落城してしまった武将というイメージがある方が多いのではないでしょうか。

 ですが、この織田秀信は、実は、あの本能寺の変の後の清州会議で、豊臣秀吉に担がれて、織田家の家督を相続することになった三法師でした。

 結局、織田秀信は、関ヶ原の戦いで西軍についたとして、高野山に流されます。

 本能寺の変がなければ、彼の運命は大きく変わっていたかもしれませんね。

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 今回は、この織田秀信について御紹介します。

★清州会議で織田家の家督を相続する

 清州会議とは、本能寺の変の後、織田家の家督と、領地の配分をどのようにするのかと話し合われた会議です。

 当時、織田家の筆頭家老であった柴田勝家の声かけで、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4名が集まりました。

 この会議で、織田家家督相続では、信長の二男・織田信雄と、三男織田信孝のどちらが家督を相続するかという点に注目が集まり、主催者の柴田勝家は仲が良かった三男・織田信孝を推薦しました。

 しかし、ここで、主君・信長の敵討ちを行い貢献度が高い羽柴秀吉が、長男・織田信忠の嫡男であり3歳の三法師が家督を相続することが筋であるとして対抗しました。

 結局、領地配分を有利にすると密かに約していた丹羽長秀が柴田勝家を説得する形で秀吉が推薦した三法師が織田家の家督を相続することになりました。

★3歳にして直轄領3万石を得る

 清州会議で織田家の家督を相続することになった三法師は、直轄領として近江国坂田郡3万石を得ます。

 そして、安土城に移ることになったが、叔父で信長の三男・織田信孝が安土城を手放さなかったので、岐阜城に留め置かれました。

 しかし、織田信孝が、小牧・長久手の戦いで秀吉に敗れた後は、安土城に移り、織田家の家督代行となった叔父で信長の二男・織田信雄の後見を受けました。

★元服して織田秀信とする

 その後、丹羽長秀の近江坂本城に移り住み成長していきましたが、丹羽長秀も亡くなってしまいます。

 このため、9歳の時、秀吉の導きで岐阜城に移り住み元服して織田秀信と名乗りました。

 1592年に秀吉の甥で岐阜城主であった豊臣秀勝が亡くなると、岐阜城と美濃の一部の所領が与えられ13万石の大名となります。

 その後は、順調に豊臣家の配下の大名として中納言の官位を得ます。

★関ヶ原の戦いで西軍に属するも

 時代は流れ、秀吉は亡くなり、時の流れは徳川家康に傾いていきます。

 そして、秀信は、関ヶ原の戦いで、石田三成からの誘いを受けて西軍に属しました。また、織田家が西軍に属したことを受け、美濃の中・小大名は次々と西軍に属することになりました。

 しかし、岐阜城は、これからの天下分け目の戦いでは重要な地点となるため、東軍の標的とされます。

 東軍の猛者である福島正則、池田輝政らが、関ヶ原の戦いの前哨戦として、岐阜城へ猛攻撃を仕掛けます。

 特に、池田輝政は、かつての岐阜城の城主であったため城の構造を熟知しており、弱点を攻められて岐阜城は一日で落城寸前となってしまいます。

 このとき、秀信は、切腹しようとしましたが、池田輝政に説得され降伏開城をしました。

★福島正則の嘆願で命は救われ高野山へ流罪となるが・・・

 関ヶ原の戦い終了後、秀信の処分は死罪が相当という意見も多々ありましたが、福島正則が「自らの武功と引き換えに」と助命を主張したため、高野山へと流罪となりました。

 そして、高野山への送られますが、祖父・織田信長の行った高野山攻めを恨みに持つ僧侶からの反発にあい、当初は入山が許されませんでした。

 その後、ようやく出家が認められたものの、周囲からの風当たりが強かったため、5年ほどで高野山を出て山麓で暮らすようになり、まもなく亡くなりました。

 

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