歴史上の人物

徳川光圀の逸話にある「官将軍擁立論」とは?

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★徳川光圀の旅のイメージは「大日本史」編さんのためだった

 徳川光圀といえば、テレビドラマ「水戸黄旦」でおなじみの名君です。

 これは、「大日本史」という歴史書を編さんする目的で、必要な資料を収集させるため、諸国に家臣を派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視したことなどからイメージとして出来上がった姿だとい言われています。

 そんな徳川光圀の逸話のなかで、五代将軍・徳川綱吉が就任する際に起こった「宮将軍擁立論」というものがありますので、今回は、この内容を御紹介します。

★四代将軍家綱の急死

  延宝八年(1680年)、四代将軍・徳川家綱が世継ぎを残さずに病死しました。享年四十でした。

 そして、あまりに突然の死であったため、後継者選びが決まっていませんでした。

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 そうしたなか、浮上したのが、宮将軍(皇族の将軍)を後継にしようという考えでした。

 この当時、幕府の政治体制は安定期を迎えており、武士の将軍がいなくても武家政治は揺るぎがないような状況にありました。

 このため、幕府内においても、「そろそろ政権を朝廷に返すべきだ」との声が挙がり始めていたのでした。

 そして、この官将軍擁立論とは具体的に、幕府が京都から宮将軍を迎え、やがて幕府を朝廷の一機関とすれば、天皇家に対する忠義が果たせるという尊皇思想から成り立っていました。

 この官将軍擁立論の主張者の筆頭格が、大老・酒井忠清でした。

 大老・酒井忠清は、家綱が亡くなる直前に、京都から有栖川宮幸仁親王を迎えて官将軍を擁立することを主張しました。

 しかし、これに老中・堀田正俊を始め、多くの武士団が強く反対します。

 反対派の主張は、将軍職はやはり武家のものであり、家綱に嫡子がいなくても、弟の綱吉を将軍にすべきだとして、宮将軍を擁立することに強く異議を唱えたのでした。

 そして、この「官将軍擁立問題」に終止符を打ったのが徳川光圀でした。

 光圀は、御三家当主の一人として、大老・酒井忠清の「官将軍擁立論」に異議を唱え、老中・堀田正敏を支持し、綱吉就任を決定づけました。

 この綱吉就任の経緯は、光圀に関する逸話などを集大成した「桃源遺事」や、幕臣の編述とされる「武野燭談」にも記載されているのでした。

★「徳川実紀」に記載がない謎

 ところが、不思議なことに、徳川家の正史「徳川実紀」には、綱吉就任を後

 押ししたという光圀の功績が何も書かれていません。

 将軍就任に関する重要事が「徳川正史」に記されないのは異例なことです。

 ましてや、「官将軍擁立論」という考え方を否定しての将軍就任だったので、違和感が出てきます。

 しかしながら、これについては、裏があると言われているのでした。

★実は「官将軍擁立論」の黒幕は光圀だった?

 実は、「官将軍擁立論」の黒幕は光圀だったと言われています。

 そもそも、「官将軍擁立論」は、家康の九男・徳川義直が唱えたものでした。

 尾張徳川家の初代当主であった義直は、晩年は尊皇思想に傾倒し、すべての政治は天皇の命令によるべきだと考えるようになりました。

 そして、この考えは、義直の甥で、彼ととても親しかった光圀に受け継がれました。

 この尊皇思想の影響で、光圀が編さんした「大日本史」は天皇中心の歴史書であるし、南北朝の争乱で北朝ではなく、後醍醐天皇側の南朝についた楠木正成の墓碑を建てたのも、この尊皇思想によるものでした。

★徳川光圀と朝廷との関係

 また、光圀は朝廷と非常に近い関係にありました。

 実は、大老・酒井忠清が官将軍として迎えようとしていた有栖川宮幸仁親王の父・後西院は、光圀の妻の従兄弟に当たりました。

 つまり、光圀と有栖川宮幸仁親王とは、親戚関係になるのでした。

 そして、官将軍擁立論の問題が本格化するのと相前後して、光圀は、有栖川宮幸仁親王の父・後西院に、光圀自撰の和文集「扶桑拾葉集」の献呈し、光圀と朝廷は急接近したのでした。

★「徳川実紀」に記載がない理由

 このようにして、宮将軍擁立に傾いた光圀でしたが、本人は徳川御三家の一人で将軍の後継問題に大きな発言権をもつだけに、自ら積極的に動くことはためらったのだと思われます。

 そこで、光圀は、大老・酒井忠清を通して自身の考えを実現化しようとしたのでしょう。

 しかし、この官将軍擁立論は、老中・堀田正俊らの猛反対を唱えるものが多く、形勢不利となってしまったため、光圀は、冷静に情勢を判断した上で、一転して綱吉擁立に回ったと言われています。

 そして、「徳川実紀」に何も記載されていなかったのは、こうした経緯を消し去るため、該当箇所を抹消した可能性が高いと言われているのでした。

★徳川光圀の状況判断

 この光圀の状況判断は、ある意味自分勝手なようでもありますが、別の観点からみると、自分が唱えたのであれば、浮かび上がってこない反対派の意見を聞くことができ、最終的に冷静な判断ができますので、有効だとも言われています。

 この場合、光圀の取った行動は、正しいものだと思われます。

★徳川光圀の子孫にも影響した尊皇思想

ちなみに、余談になりますが、光圀の子孫となる水戸徳川家では、この尊皇思想が歴々と受け継がれていきます。

そして、水戸家出身の徳川十五代将軍の慶喜も、その傾向が強くありました。

慶喜が、鳥羽・伏見の戦いで、逃亡のようにして、深夜の大阪城を抜け出したのは有名な話です。

これは、薩摩・長州軍が朝廷の「錦の御旗」を掲げたため、自身が反朝廷の賊軍という汚名を拒んだため、逃げ出したと言われています。

 

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