歴史上の人物

石田三成の名言、諦めない気持ち

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 皆さんは、「石田三成」というと、どのようなイメージをお持ちですか?

 「裏切りで敗れた豊臣の知将」、私には、昔読んだ本に書いてあった、この言葉のイメージがあります。

 そんな三成が残している名言として、次の3つの言葉があります。

 

1 「敗れたといって直ちに死ぬのは、葉武者のことだ。あなたのような人間に、大将の道を語っても耳には入るまい。」

⇒ この言葉は、石田三成が、関ヶ原の戦いで負け、捕虜となって、なぜ自害せずに捕まったのかと罵られ、回答したもの。

 

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2 「上様とは、秀頼様しかいないはず。いつから家康が上様になったのだ」

⇒ この言葉は、徳川家康が、捕らえられの身の三成が破れた衣類のままだと聞き、送った小袖を三成に届けた者が「江戸の上様からだ」という言葉に反応したもの。

 

3 「大義名分を思う者が首を刎ねられる最期まで命を惜しむのは、なんとかして本望を遂げようと思うからだ。」

⇒ 処刑前、警備兵から柿を勧められ、柿は痰が出て毒だから要らないと回答したところ、警備兵が「処刑される前に痰を気にするな。」と言われ、回答したもの。

 

 いずれも、関ヶ原の戦いで敗れ、捕らえられた後の兵士との会話ですが、三成の最期まで諦めたくない気持ちが垣間見える言葉です。

それでは、それぞれの内容を御紹介していきましょう。

 

★石田三成が捕らえられた際の本多正純との会話

 1600年、関ヶ原の戦いで敗れた「石田三成」は、再起を図るべく近江国に逃げ込みますが、捕えられて大津城に搬送されます。

 ここで、捕えられた三成と、家康家臣・本多正純とが交わした会話が「常山紀談」に次のように伝えられています。(いずれも意訳です。)

 正純が 「諸将が同心していないのも知らず、軽々しく軍を起こし、敗れて自害もしないのは、どういうことだ。」と批判めいた質問をしたのに対して、

 三成は 「腹を切って死に急ぐのは、葉武者のすること。あなたに、源頼朝公が、朽木の洞に身を潜めた心は分かるまい。頼朝公が大庭に絡め取られていたら、あなたのような人間に笑われていたでしょう。あなたに大将の道を語っても耳には入らないでしょうね。」

と回答したそうです。

 さすがに三成、頭の回転の早さは抜群ですね。

 ですが、かなり言葉にトゲがありますね。

 「あなたには、分からないと思いますが・・・」というのは、無条件で相手を見下した表現ですね。

 

★徳川家康から贈られた小袖

 また、三成は、関ヶ原の戦い後に、同じく捕らわれの身となっていた小西行長、安国寺恵瓊えられてとともに、小袖(袖口が狭い着物)が与えられました。

 これは、徳川家康が、処刑前の人が破れた衣服ままである事を聞き、「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である。」として小袖を送り届けたというものでした。

 三成は、与えられた小袖を見て、「誰からのものか」と聞ききます。

 小袖を届けた者は、「江戸の上様(家康)からだ」と答えました。

 すると、三成は「それは誰だ」と聞き返します。

 小袖を届けた者は、「徳川殿だ」と答えると、

 三成は、「上様とは、秀頼様しかいないはず。いつから家康が上様になったのだ」

と言って、小袖を受け取りませんでした。

 

 三成の性格を表現しているエピソードですね。

 合戦に敗れてしまったことの悔しさがにじみ出た言葉だと思います。

★柿は体に悪いから要らない

 三成は、処刑前に、見せしめのために、京の市中を引き回しにされました。

 引き回しが終わった後、三成は喉の渇きを感じ、周りの兵に「白湯が飲みたい」と訴えました。

 しかし、そこに白湯はなく、柿があるだけでした。

 そこで兵は「水はないが、柿ならあるぞ。食うか?」と、三成に柿を渡しました。

 ところが三成は、「柿を食うと、痰が出て体に悪い」と断りました。

 これに対して、「これから死ぬ人間が体の心配をしてどうする」と言って笑いました。

 しかし三成は真顔でこう言い返します。

 

 「武士たるもの、どんな境遇に陥ろうとも生き延び、再起を図る望みは捨てぬ」

 

★関ヶ原の戦いで夜襲を仕掛けていれば三成は勝っていた?

 関ヶ原の戦いの西軍の陣形は、かなりレベルが高かったようで、後に、ヨーロッパの軍事学者がこの陣形を見て、東軍の勝利はありえないとコメントしたそうです。

 しかし、この軍事学者は、裏切り者がでたということを聞いてようやく納得したそうです。

 三成自身としては、合戦の実践には強くないものの、得意の論理的な計算で配置した万全の体制を整えていたのでしょうね。

 一方、関ヶ原の戦いの前夜、西軍は三成の的確な計算により、準備万端に陣軍を配置していたのに対して、東軍はようやく辿り着いたばかりの状態でした。

 この状況に、薩摩の島津義弘は、夜襲をかければ、優位に戦を進められる旨、進言しますが、三成は「正義は我々にあるのだから負けるはずがない。」旨回答し、進言を退けます。

 これに対して、島津義弘は、「負ければ正義は散り申す」と言ったそうで、実際にそのように時代の流れは徳川に味方していきました。

 また、同じく夜襲案に賛成していた宇喜多秀家は、もう少し三成をうまく説得して夜襲をできていたならと本当に後悔していたというエピソードを読んだことがあります。

 

★石田三成の性格

 最後になりますが、結局、裏切りで負けた三成は本当に悔しかったんでしょうね。

 秀吉が得意としていた調略によって、最後は自分が豊臣家を守れなかったのですから。

 三成の性格は、神経質で細かい性格である反面、自分が意気の合った人物に対しては相手の立場になって色々と面倒をみてくれます。

 しかし、相手側からちょっと間違いを指摘されたり、意見が違ってたりすると、とことん反りが合わずに反発し、頑固でした。

 結果として、その性格が災いしてか、或いは調略というある意味合戦で最も重要なことが出来なかったためか、関ヶ原の戦いで敗れてしまったものと思われます。

 私見ですが、この3つのエピソードには、三成の信念というよりも、裏切りで敗れてしまった悔しさがにじみ出るように感じられますね。

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