伊藤博文といえば、松下村塾の生き残りとして、明治時代に活躍した政治家です。
伊藤は、明治維新以降、内閣制度の創設や大日本帝国憲法の制定などで活躍したほか、何よりも日本最初の総理大臣としても有名な人物です。
しかし、この伊藤博文が、最後はハルピンで韓国人の安重根に暗殺されてしまったのは有名な話ですが、その暗殺事件については、黒幕がいたのではないかと言われています。
今回は、この伊藤博文暗殺事件について、御案内します。
目次
★安重根による伊藤博文暗殺計画
伊藤博文暗殺事件が起こったのは、明治四十二年 (1909年)のことでした。
日本は、日露戦争以降、韓国の外交・内政権を段階的に奪っていくことで、韓国の保護国化を進めていました。
この韓国保護国化の政策は、日本としては当時、日露戦争には一応勝利し、韓国がロシアに併合されるという脅威は一時的に回避できていたものの、それでも、もし韓国がどこかの列強国に植民地支配されるようなことがあれば、次に日本が狙われることが目に見えているため、何とか韓国を支配下におきたいと考えからきていました。
ちなみに、西郷隆盛の征韓論も、この考え方に基づくものでした。
そして、アメリカやイギリスに対しても、日本の韓国支配を認めさせて、明治三十八年(1905年)年には、その拠点となる統監府を韓国に設置したのでした。
その総監府の初代統監には、伊藤博文が任命されます。
日本は、初代総理大臣という実績を持つ伊藤博文を初代総監に任命することにより、今後、韓国支配をより強固にしようとする意図を内外に示したのでした。
これに対して、韓国民は反感を抱き、義兵闘争を行います。
いわゆる、抗日独立闘争を展開するのでした。
そして、この抗日独立闘争の指導者である安重根は、ハルピンに伊藤博文が訪れるということを聞きつけ、初代総監である伊藤博文の暗殺を計画し、実行するのでした。
★テロリストとなって安重根が伊藤博文を狙撃する
そして安重根は、明治四十二 年(1909年)十月二十六日午前九時、清国領ロシア租借地ハルビンにて、伊藤を狙撃します。
具体的には、伊藤がハルピン駅で、ロシアの大蔵大臣・ココフツォフと歓談した後、ロシア側の用意した宴の列車に移動する際に、安重根は群衆を装って近づいていき発砲しました。
討たれた伊藤は、直ちに列車に運び込まれて、医者が応急措置を施します。
しかし、伊藤は、狙撃された傷が致命傷となり、約三十分後に息を引き取りました。
一方の安ですが、伊藤を狙撃後、その場で直ちに取り押さえられます。
そして、供述の中で、伊藤が韓国の主権を奪ったこと、韓国皇帝を廃したこと、更には義兵として立ち上がった韓国の良民を多数殺害したことなどから、これらに抗議するために、犯行に及んだと語ったのでした。
★伊藤博文の考えは親韓国派
しかしながら、実際には、伊藤は早急な韓国併合に反対していたと言われています。
伊藤の考えは、韓国を併合することに反対し、韓国を保護し育てて、いずれは独立させても列強の植民地とならない国にしていきたいというビジョンを描いていたと言われていました。
このため、伊藤は、日本本国の政府上層部から、韓国への対応が生ぬるいと指摘され、暗殺されたときには、すでに統監の職を辞していました。
けれども、韓国の人々には、そのようなことは分かりません。
反対に、ついこの間まで統監の地位にあった伊藤は、祖国・韓国を苦しめる日本の象徴のようなものでした。
★本当に安重根は伊藤博文暗殺の犯人か?
この伊藤博文暗殺事件の公式見解としては、「伊藤を撃ったのは安重根である」というものでした。
ところが、これには、直ぐに反論が出されます。
その反論の内容というのは、安は単に狙撃犯の一人であり、別の犯人、若しくは黒幕的な存在がいるのではないかというものでした。
実際、この暗殺事件には、これを裏付けるような証拠と証言があるのでした。
★銃弾の跡が異なる
最も不可解な点と言われるのが、伊藤の身体に撃ち込まれた銃弾の跡です。
初めの銃弾は、伊藤の石の肺の上から体内へ向けて下方へ五センチほど通過し、第七肋骨(あばら骨)あたりでとどまっていました。
第二弾は右肘の関節から内側に向けて第九肋骨に入っており、第三弾はへその上のあたりから撃ち込まれ、左腹筋にとどまっていたのでした。
これら3発のすべての銃痕は、弾を斜め上から発射されたことを示しています。
ところが、伊藤に随行していた貴族院議員,室田義文の証言では、安と思しき犯人は小柄な体格を利用して、群衆を装って低い位置から伊藤を狙って撃ってきたというのです。
仮に、そのように狙撃すれば、発した弾丸は身体の下方部から上方部へという弾道になるはずです。
しかし、伊藤の身体に残された銃弾の跡とは反対であり、つじつまが合わず、状況的に安重根が撃ったものとは思えませんでした。
★銃の種類も一致しない
また、銃の種類に関しても、実は異なっているのです。
安は、七連発のブローニング銃を所持していました。
ところが、随行者・室田の証言によると、伊藤の身体から取り出された弾丸は、ブローニング銃ではなく、フランスの騎馬銃の弾丸でした。
また、安は、仲間三人と暗殺を行いますが、その仲間が所持していた銃の種類もフランスの騎馬銃の弾丸ではありませんでした。
このため、随行者・室田は、事件現場となった駅プラットホーム横の建物の2階から、フランスの騎馬銃で誰かが撃ったものだと主張したのでした。
★伊藤博文暗殺事件の黒幕はロシア政府か?
こうして、随行者・室田は、伊藤博文暗殺事件の真犯人の存在を声高に訴えようとしました。
そもそも、随行者・室田には、今回の事件に違和感を持っていました。
この事件は、ハルピン駅のプラットホームで、ロシア兵の閲兵を受けた際に起こったものですが、これは当初には予定されていませんでした。
更に、伊藤は、自分は平服であるため、閲兵を断りました。しかし、ロシアの大蔵大臣・ココフツォフが強く依頼したので、やむを得なく受けた際での出来事でした。
ところが、随行者・室田は、政府上層部の人間に、「真犯人は別にいる。」と訴え出ることは「外交問題に支障を来す。」と言いくるめられ、思いとどまらざるを得なかったというのです。
この「外交問題」とは、当然、ロシアとの関係でした。
この事件は、日露戦争の終戦後からわずか四年で生じており、敗戦国・ロシアの対日感情は決して良くありません。
そして、今回、伊藤がハルビンまで出向いたのも、韓国問題でロシアを刺激しないように話し合うためのものでした。
★その後は、日韓併合が早まる
しかし、一方で日本政府は、日本の偉大な政治家が韓国人に暗殺されたと、国内外に大きくアピールをしました。
そして、この事件を口実に、韓国内の治安維持を確保するために、早急に韓国を日本に併合する必要があるという政策論を掲げ、急速なペースで日韓併合を進めていきました。
このような経緯で、伊藤博文暗殺事件の真相は、闇に葬られてしまった感があります。
しかしそこには、ロシア及び韓国の思惑と、一方で日本の思惑とが、それぞれに入り交って次の一手を見据えた駆け引きが行われていたようです。
一方、韓国では、安重根は抗日独立闘争の英雄ということで、「安重根記念館」が建てられています。