歴史上の人物

新井白石の儒学者としての苦労と栄華

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新井白石というと教科書にもでてくる江戸時代を代表する儒学者です。

甲府藩主の徳川綱豊に儒者として仕えていましたが、その綱豊が徳川幕府六代将軍の家宣になったため、白石の身分は幕府儒官となり、七代の家継にも仕えることができまた。

このように、官学の最高の官職にあった白石ですが、若かりし頃は、浪人生活を二回も経験するなど、相当の苦労がありました。

今回は、新井白石のお話をご案内していきます。

★新井白石は浪人になる

新井白石の若かりし頃の苦労とは、現代のサラリーマンと同じように、強制退職、勤務先の経営危機による賃金カットといったものです。

一見、儒学者というと武士とは異なる

世界があるようにも思われますが、主君に仕えているかぎり、儒学者であっても、出処進退には武士の掟が適用されてしまいます。

白石の父は正済といい、上総の久留里藩主の土屋家に仕える、儒学を専門にしない普通の武士でした。

久留里藩土屋家は甲斐の武田氏の遺臣の家でした。

土屋忠直が二万石で封じられて久留里藩の祖となりましたが、三代の藩主の椅子をめぐって内紛が生じてしまいました。

この時、白石の父の正済はすでに現役を退職していましたが、敗北した側に味方したと判断されて、追放されてしまったのでした。

父は七十五歳、白石は二十一歳のときでした。

★新井白石は浪人になっただけでなく「奉公構え」が付加される

このように藩主に僧まれて追放され、浪人となるというのは武士には珍しくありませんが、新井父子の場合には「奉公構え」という厄介な指定が付加されていました。

通常、浪人になっても機会あれば他家に仕えることが可能ですが、この「奉公構え」が付加されると、他家に仕えてはならないという付帯条件がついてしまいます。

そして、新井父子の場合、土屋家から「奉公構え」の取消しが宣言されないかぎり、他家に仕えることができないこととなります。

仮に、この措置を知らずに新井父子を召し抱えてしまった家があると、土屋家に対する敵対行為として幕府から叱責されてしまいます。

また、仮に、この処置を承知のうえで召し抱えれば、反乱と見なされるおそれもあるのです。

つまり、この「奉公構え」の付加は、真に路頭に迷う境遇になることを意味していました。

★新井白石の「奉公構え」が解除される

しかし、白石の場合、相当の学問はあるから、私塾をひらけば生活費は稼げます。

実際に、支援するから私塾を開きなさいと勧めてくれる人もいました。

しかし、白石は学問は続けましたが、塾は開きませんでした。

そして、後年の研究者によると、生活費は、義兄から援助を受けていたのだろうと推測されています。

また、好きなだけ学問して構わないから、婿になる気はないかと言ってくれる商人もいましたが、断ったようです。

この婿に誘ってくれた商人の中には、大規模土建業者の河村瑞軒の名もあがっていました。

もし、婿入りしていれば、河村瑞軒の孫娘の夫として生活の不安はなく、思う存分に研究できることになります。

そのような美味しい話を断った詳細な理由は不明ですが、白石にとって何らかの不都合があったのだと思われます。

その後、幸いなことに、新井父子の「奉公構え」はあしかけ三年で解除されました。

これには理由があります。それは、土屋家の内紛はその後も収束せず、とうとう土屋家そのものが廃絶になってしまったのでした。

このため、土屋家から出されていた新井父子の「奉公構え」も無効になったのでした。

★新井白石は大老に仕えることになる

その後、天和二(一六八二)年、白石が二十六歳のとき、白石は幕府の大老の要職にある堀田正俊に仕えることが決まります。

この白石の再就職が決まった直後、安心したのか白石の父・正済は亡くなりました。

父・正済とすれば、息子の再就職を見届けてからだったので思い残すことはなかったと思われます。

仮にも、幕府の大老職の堀田家、その堀田家のお儒者になったのだから、今度は生活の心配などせず、研究に没頭できるのかと思いきや、再び、白石に試練が訪れました。

★新井白石は二度目の浪人に

貞享元(一六八四)年、堀田正俊が江戸城中で若年寄の稲葉正休に刺し殺されてしまったのでした。

この事件で、堀田家が廃絶されなかったのは不幸中の幸いですが、堀田家自体に大老職を拝命する威厳は失せてしまいました。

そして、領地が下絵の古河から出羽の山形に移り、次第に堀田家にあった誇りも覇気も薄れてくる日々でした。

堀田家は、山形に移封させられても知行の十万石は減らされませんでしたが、それまでの堀田家の財政が貧窮の極にあることが明らかになってしまいました。

この堀田家が破産に瀕している事実が分かった結果、臣下に対する給与が古河時代のレベルをはるかに下回らざるをえなくなってしまいました。

この減給に不満を抱き、堀田家の前途を見限って致仕してゆく同僚も多くいました。

この時、白石も致仕すべきではないかと考えます。

しかし、ここで白石は、歯を食いしぼって耐えたのでした。

白石は、この時に致仕しなかった理由を、自伝「折りたく柴の記」で次のように説明しています。

「いちどは主と仰いだ正俊殿に不幸な事件が起こらなかったならば、わたくしは今日までお仕えしてはいなかったはずです。ここ数年のあいだ、耐えがたいところを耐え、忍びがたいのを忍んでまいったのは主従の因縁を重んじたからなのです」

この白石の考え方は、とても分かりやすいものです。

白石は、浪人の暮らしには慣れているのです。しかも、並のレベルの浪人ではありません。「奉公構え」のついた深刻このうえない浪人暮らしなのでした。

こんな、チョットやソットでは経験できない不遇に慣れてくると、反対に主君に仕えることができる境遇のほうが珍しい感じになってくる。

一度は主従の関係を結んだ因縁を大切にして、自分自身でこのことが実感できれば、いつ辞めても平気でいられると考えたのでした。

こうして、給与の安い堀田家に仕えていましたが、最後にはどうにもならない状態となった時点で致仕の届を出して、許可をもらったのでした。

今度は、「奉公構え」は付かないので、その点は安心だと考えました。

★新井白石の君主が将軍に?

白石は浪人暮らしには慣れています。二度目なので、特別のことでもありません。しかも、今度は「奉公構え」が付かないので、気分も楽ですし、何よりも新しい就職先を探せます。

こうして、浪人暮らしをしているところへ、幸運にも甲府の徳川綱豊に仕えないかと勧誘があったのでした。

その時の白石は、綱豊がその後にまさか将軍になる方とは思わず、気楽な思いで仕えました。

すると、綱豊は白石のことを気に入ります。

そして、その綱豊が徳川幕府六代将軍・徳川家宣となると、白石の身分も幕府儒官の身分となります。

二度も浪人した人とは思えない幸運です。

そして、白石は、さらには七代将軍・徳川家継にも仕えて、官学の最高官職の地位を固めていったのでした。

★最後に

このように、新井白石の人生は山あり谷ありの人生でした。

しかし、彼はどんな状況におかれても、決して腐らず、前向きに学問に取り組んでいきました。

このような白石の行動がなければ、決して幸運は訪れなかったでしょうし、また、仮に幸運が訪れても、すぐに去っていったと思われます。

人生、色々なことがあります。我々も焦らず、腐らず、前向きに生きていかなければいけませんね。

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