歴史上の人物

大久保利通が薩摩藩・島津久光と提携を図るための秘策は「囲碁」

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 明治維新の立役者、大久保利通は、薩摩藩の下級武士の生まれでした。

 この大久保が、下級武士の出身から明治政府を創設する第一人者に出世していく過程には「囲碁」というものがありました。

 若かりし頃の大久保は、薩摩藩の実質実権者・島津久光が囲碁が好きだと知るや否や直ちに習いにいきます。

 そして、大久保は、少しでも藩主との距離を縮めようと画策します。

 今回は、大久保利通が、世に出るきっかけとなったと言われている囲碁との関わり合いについて、ご案内していきます。

★大久保利通の囲碁好きは有名

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 大久保は、囲碁が好きだったと伝えられています。

 そして、晩年の大久保は、女流の碁打ちをかかえていて、ひまがあればコーチをさせていたそうです。

 ちなみに、大久保は対局に勝った場合は機嫌が良いのですが、負けたときは、時として機嫌が悪くなり、そんな状態で帰宅したときには自宅の門をくぐった足音で分かったとも言われています。

★大久保利通は「お由羅騒動」に巻き込まれる

 大久保は、薩摩藩島津家の下級武士の出身で、御小姓与に属していました。

 父の利世が琉球館付役であり、利通自身も十七歳のときから記録所につとめていました。

 そして、大久保が二十歳のときに起こった島津家のお家騒動  お由羅騒動で大久保家の状況は一変します。

 父は鬼界島へ流罪、利通は解職謹慎処分を受けたのでした。

★大久保利通は尊王攘夷派のメイバーとなる

 そして、この処分が解けた後、大久保は薩摩藩の下級武士の尊王攘夷派のメンバーになりました。

 この当時、薩摩藩主の島津斉彬は幕政改革派大名連合の重鎮として江戸で幅をきかせており、その斉彬との連絡は西郷隆盛が当たっており、また、西郷は、下級武士尊王攘夷派のリーダーでもありました。

 そして、いよいよ幕政改革の大芝居の幕をあける寸前になって、斉彬が病死してしまいます。

 この結果、西郷は幕府に追われて奄美大島に亡命する苦境に陥ったのでした。

★大久保利通は島津久光に近づこうと囲碁を習い始める

 薩摩藩の藩主は、斉彬のあとは甥の忠義が跡を継ぎますが、実質の権力は忠義の父の久光が握っていました。

 このため、大久保は、尊王攘夷派として久光と提携しようと画策します。

 通常であれば、薩摩藩の実質実権者と下級武士との提携など、今までであれば考えられないことでした。

 しかし、久光は、斉彬とは異なり政権の基盤がなく、尊王攘夷派には政策立案へ介入できる展望がないのでした、

 このため、大久保は、久光に接近するため、久光という人物の研究をします。

 その結果、久光は囲碁が好きだということが分かったのでした。

 大久保にしてみれば、囲碁なんかやったことはありませんでしたが、今はそんなことは言ってられません。

 ちなみに、確認したところ久光の囲碁の相手は吉祥院の真海で、その真海とは尊王攘夷仲間の税所篤の兄だと分かると、吉祥院に通って囲碁を習うことになったのでした。

 しかし、目的は、あくまても囲碁ではなく、久光と真海の人脈の末端に自分の名を覚えてもらうことでした。

 つまり、大久保は、このような不純な動機で習い始めた囲碁でしたが、やっていくうちに、その面白さが分かってくるようにもなったのでした。

★大久保利通の熱意が島津久光に伝わる

 その後も、大久保は吉祥院真海に囲碁を習い続けました。

 やがて、真海との交際が深まっていくと、ほかでは聞けないはなしも出るようになってきました。

 そしてある日、「久光公が平田篤胤の『古史伝』という本を読みたいとおっしゃるのじゃが、平田といえぱ神道じゃろう、わしの寺にはございませんと申しあげるほかなかった。」という内容を聞きます。

 すると直ちに、「平田篤胤の『古史伝』ですね。心当たりがないでもありません。お待ちください。」というと、仲間のあいだを探しまくって「古伝史」を借り、真海をとおして久光に提供しました。

 そして、大久保は、本のあいだに、時事についての自分の意見書や尊王攘夷仲間の名簿をこっそりと挟んでおいたのでした。

 その挟んでおいたことが、やがて効果が表れてきます。

 その後、久光から「状況激変のときには、先代斉彬公の御遺志をつぎ、全藩をあげて乗り出す決意である。有志の面々は予のいたらぬところをたすけ、藩の名をけがさず、誠忠をつくしてほしい」と、藩主・忠義の名によって尊王攘夷仲間に「諭書」がくだったのでした。

 そして、その論書の宛名は、「精忠士の面々へ」とあったので、大久保グループは「精忠組」と呼はれるようになりました。

★島津久光と精忠組との提携

 この精忠組の出現が、薩摩藩の幕末政治への正面きっての登場となったのでした。

 このころの政治は、京都における尊王攘夷派が全盛であることが示すとおり、藩よりは草奔の志士が先頭に立っていたのでした。

 一方で、れっきとした藩士であっても、まるで草奔志士であるかのような顔をして奮闘していました。

 薩摩藩で島津久光と精忠組との提携が成立したということは、政治を草奔志士の手から藩という既成の組織に引き戻すという意味があったのでした。

★もし大久保利通が囲碁を習っていなければ

 明治維新とは、薩摩藩と長州藩の一部の人間が行ったものと錯覚しがちですが、何よりも、討幕に動いた藩という組織の政治力によって達成されたものです。

 そして、その討幕に動いた藩のリーダー的な存在は薩摩藩でした。

 つまり、島津久光と精忠組の意思疎通ができていなければ、討幕に動いた藩の統率が取れていなかったと思われます。

 それを考えると、大久保が真海和尚に囲碁を習いに行かなかったら、明治維新は成し遂げられなかった、或いはもう少し遅い時期になっていたかも知れませんね。

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