歴史上の人物

藤堂高虎は、城作りの名人として子孫に名言を残す 決して世渡り上手なだけではない

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 藤堂高虎は、徳川家の代表的な外様大名と言われており、いわゆる別格譜代と言われています。

 関ヶ原の戦い以降、徳川軍の先鋒は、「譜代は井伊」、「外様は藤堂」というのが例となっており、この戦陣は幕末の鳥羽伏見戦いまで続きました。

 また、高虎は、八度も主君を変えており、そのイメージが変節漢あるいは走狗とされ、歴史小説などではマイナスのとして描かれることがあります。

 しかし、彼は、様々な主君に仕えた経験を持つ苦労人で、家臣が他家に仕えるために暇がほしい旨を伝えると、新天地で頑張ってくるよう励ますとともに、もし新天地が合わなかったらいつでも戻ってくるように伝え、実際に戻ってきた家臣には元の所領を与えてやるのでした。

 一方、藤堂家は、もともと近江の十九の村を支配する領主でしたが、乱世の中、領主の地位を奪われ、父の代には地侍に落ちぶれていました。

 高虎の父は、武士として生計を立てていくことを目指しましたが、その願いは叶わず、農業と兼業しないと食べていけませんでした。

 このため、高虎は、「父の果たせなかった知行取りになってみせる。そのためには武功をあげるしかない」と決意するのでした。

 幸い高虎は、身の丈六尺二寸。現在でいうと、身長百八十八センチ、当時の日本人の身長よりもおよそ三十センチも高い巨体の持ち主です。

 さらに、筋骨は隆々、子どもの頃から一度も泣いたことがないという逸話のある強者でした。

 そして、「武功を立てる。」、その心を胸に当時十五歳の高虎は、姉川の戦いで、自分の大柄な体躯を十分に利用して、見事敵の武将の首をとる手柄を立て、最初に敵を討ち取る一番首の武功をあげていきます。

 今回は、この藤堂高虎のお話を御案内します。

★藤堂高虎は姉川の戦いで初陣を迎える

 元亀元(一五七十)年六月、織田信長と浅井・朝倉が激突します。

 姉川の戦いです。その時、当時十五歳だった藤堂高虎は、浅井軍の中で、足軽として初陣を迎えました。

 そして、武功をあげます。

 領主・浅井長政は、高虎に褒美の刀を授けました。

 しかし、浅井家は織田信長に滅ぼされてしまったため、高虎は新天地を求めて阿閉貞征のもとに仕官します。

★藤堂高虎は、父が果たせなかった知行取りの夢を叶える

 阿閉家でも、彼は、チャンスをものにしました。

 ある日、高虎は家中の裏切り者二人を始末するよう命じられました。

 相手は剣の使い手として知られる男たちでしたが、高虎は二人を難なく討ち取ったのでした。

 しかし、高虎はわずか一年で阿閉家も後にします。

 高虎の次の仕官先は、それまで仕えた主君の敵、織田信長の家臣・磯野員昌でした。

 高虎はここで、八十石の知行を与えられました。

 この時、高虎十八歳。父親が一生かかっても果たせなかった知行取りの夢を、わずか三年で果たしたのです。

 織田一門の家臣となった高虎は、ここでも先陣に立ち、めざましい活躍を重ねます。

 しかし、いくら武功を上げても知行が八十石から一向にあがりません。

 高虎は、織田の家名も、やっと手に入れた八十石の知行もあっさり捨て、三度目の浪人になります。

 「数年昼夜奉公しても、気のつかない主人であれば、代々仕えた主君であっても暇を取るべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない」

  そんな高虎が次に仕えたのは、羽柴秀吉の弟・羽柴秀長でした。秀長は一二百石の知行で高虎を迎え入れました。

★藤堂高虎は羽柴秀長の仕官して築城という専門分野を見つける

 その後、天正十(一五八二)年、織田信長が本能寺の変で世を去り、秀長の兄・秀吉が一気に天下を治めていきます。

 高虎も、羽柴家に仕えて七年が経過し、知行四千六百石にまで出世して、一軍を率いる武将となることができました。

 しかし、高虎は、戦上手がひしめく羽柴家の中で、戦場の武功に頼る出世に限界を感じます。

 けれども、今後、出世していくにはどうすればよいのかを考えた末、辿り着いた道は、「城づくり」でした。

 高虎は、十か所を超す城攻めを経験していたため、城の重要性を十分に認識し、攻められにくい城の設計術を身につけていったのでした。

 こうして、高虎が、生涯に作った城はおよそ二十と言われています。

 このように、高虎は、築城の第一人者として羽柴家で不動の地位を獲得していきました。

 そして、姓を豊臣と改めた秀長の家老になり、二万石を与えられます。専門性を身につけることで、他の武将との競争を勝ち抜いたのでした。

★藤堂高虎は豊臣家の内紛に巻き込まれるが危機を脱出する

 その後、天正十九(一五九一)年一月、秀長がこの世を去ってしまいます。

 そして、秀長の所領であった紀伊・和泉・大和百万石は、秀長の子・豊臣秀保に受け継がれていきました。

 しかし、ここで高虎は豊臣家のお家騒動に巻き込まれてしまいます。

 それは、実子が育たなかった秀吉は、甥の秀保や秀次を重く用いていましたが、文禄二(一五九三)年、実子の秀頼が生まれると、彼らをにわかに疎んじ始めたのでした。

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 そして、文禄四(一五九五)年七月、謀反の疑いをかけられた秀次が切腹させられます。

 さらに、高虎の主君・秀保も原因不明の死を遂げてしまったのでした。

 こうして、秀保の家が廃絶となり、多くの家臣が、秀吉配下へと移っていきます。

 しかし、高虎は、秀吉の刃が家老を務めた自分にもいずれ向けられるだろうという危険を察知して、高野山に向かい、秀保、秀長を弔うために讐を切ります。

 そして今まで築きあげた二万石の知行や家老という地位を捨て、忽然と俗世間から姿を消しました。

 その後、高虎の予想したとおり、秀保や秀次に仕えていた家臣は、謀反に関わったとして次々に死罪に処せられていきます。

 しかし、すべてを捨てて寺に入った高虎には、秀吉も何も手出しはできませんでした。

★藤堂高虎は豊臣秀吉から下山を懇願される

 その後、高虎は、高野山で過しますが、反対に秀吉からその将才を惜しみ、自分の家臣となるように使者を介して説得されます。

 高虎は考え抜いた末に下山します。喜んだ秀吉は、高虎に以前の三倍以上の伊予国板島七万石の大名となりました。

 こうして高虎は、七人目の主君で、ときの天下人である秀吉の元で再び歩み始めました。

★藤堂高虎は豊臣家に見切りをつけて徳川家康に歩み寄る

 しかし、慶長三(一五九八)年八月、秀吉が亡くなってしまいます。

 すると、豊臣家では、従来から仲が悪かった、加藤清正らの武断派と石田三成らの文治派の争いが顕著となります。

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 この状況に、高虎はいち早く徳川家康支持の態度を鮮明にしました。

 この態度の豹変に、豊臣恩顧の大名たちは、高虎を「裏切り者」とののしりましたが、高虎は「侍で自分の考えを固持することができない者は、なたの首が折れたようなものである」と動じませんでした。

 そして慶長五(一六00)年の関ケ原の戦いでは、東軍の家康方に属した高虎は、西軍の将・脇坂安治、小川祐忠、朽木元網の寝返り工作に成功した上に、東軍の先陣を務めて家康方の勝利に大いに貢献しました。

★藤堂高虎の風見鶏のような反応で、徳川家康に忠義を尽くす

 しかし関ヶ原の戦いの後、高虎は自分が置かれた状況が決して安泰ではないことに気づきました。

 関ケ原の戦いで、東軍に寝返り、ある意味で最も勝利に貢献したといえる小早川秀秋が、二年後にお家廃絶となりました。

 さらに、高虎が寝返り工作を行った小川祐忠も所領を没収されてしまいます。

 家康は、いくら自分の味方につこうと、裏切りを行う外様大名を簡単には信用しないことが分かってきたのでした。

 そして、その目は、次々と主君を鞍替えしてきた高虎にも向けられ始めていたのでした。

 さらに、高虎の立場を危うくする事件が起きます。

 慶長十九(一六一四)年十月、大坂・冬の陣が始まってすぐ、大坂方の密使の書状が家康の手に渡ります。

 それは、大坂城の豊臣秀頼から藤堂高虎宛てに書かれたものでした。

 「この上は、申し合わせたように、東軍を裏切ってくれれば、約束した領国を与え、その他の恩賞も望み次第とする」という内容でした。

 この高虎が秀頼と内通していることを示すこの書状は、家康方の内部分裂を誘うための大坂方による謀略でした。

 しかし、この書状により、家康陣営に衝撃が走ります。

 もちろん事実無根ではありましたが、高虎の経歴を知る諸将は、疑いをぬぐうことができませんでした。

 この疑いを晴らすべく、大坂・夏の陣の先鋒を務めたのは藤堂軍でした。

 大坂城へ向け進軍を始めた藤堂軍五干が、河内の八尾の付近で大坂方の長宗我部盛親軍を発見します。

 長宗我部軍は、関ヶ原の戦いでお家が断絶されており、この戦いに起死回生を狙って、後方にある家康本陣の奇襲を目論んでいました。

 この両軍の間には湿地帯が横たわっていました。

 この状況で、高虎は家康に忠義の心を示すために、不利を承知で突撃を命じました。

 長宗我部軍は、ぬかるみに足を取られる藤堂軍に容赦なく襲いかかります。

 高虎は、それでも前進を命じ続け、ついに長宗我部軍を敗走させ、家康本陣への奇襲は未遂に終わらせたのでした。

 この戦いで、高虎は六人の大将を含め、六百人余りとも言われる家臣を失いましたが、大坂・夏の陣は家康方が勝利します。

 この命を賭けて忠義を見せた高虎を、家康は「国に大事が起こった時は、一番手を藤堂高虎とせよ」と評し、藤堂家は加増され、伊勢・伊賀三十二万石となりました。

 この時、高虎六十歳。槍一本で初陣してから四十五年、・八番目の主君のもと、国持ち大名へと成長をとげていたのです。

★藤堂家の家訓

 大阪の陣の後、藤堂家は伊勢・伊賀三十二万石を治めることとなりますが、高虎には、伊賀上野城でゆっくりと過ごす暇は晩年まで訪れませんでした。

 家康死後も二代将軍・秀忠、三代将軍・家光に仕えるため、ほとんどの時間を江戸で過ごしたのです。

 そんな中、高虎は自らの人生から学び取ったことを、二百か条にわたる家訓をまとめました。

 その家訓のいちばん最初が次の言葉です。

 「寝室を出る時から、今日は死ぬ香であると心に決めなさい。その覚梧があればものに動ずることがない」

 また、こんな言葉も残しています。

 「人をだましてはならない。真の時承諾が得られない。深く慎むべし」

 そして、寛永七(一六三十)年十月五日、藤堂高虎は死去します。享年七十五歳でした。

 その大きな遺体には無数の弾傷と槍傷に刻まれ、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も爪の無い満身創痍の人生でした。

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