歴史上の人物

別所長春は三木城主として20か月間秀吉の兵糧攻めに抵抗する

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★羽柴秀吉が中国方面軍事令官となる

  羽柴秀吉は、信長から「中国方面軍司令官」に任ぜられ、毛利氏の制圧を命ぜられました。

 そして、秀吉は、中国方面の進軍に際して、まず、御着城の支城だった姫路城を任されていた黒田官兵衛を味方につけました。

 そして、黒田官兵衛の説得力は影響が大きく、播磨のほとんどの武将たちが信長方になびいていき、順調とも言える進軍が始まりました。

 ちなみに、この時の黒田官兵衛の影響力は、後に秀吉と20か月も対峙することになる三木城主・別所長治も、一旦は信長方についたのでした。

★別所長治の抵抗

 ところが、翌年に入ると、別所長治は、東播磨の諸城の城主たちと連絡をとり、反信長の姿勢を明らかにします。

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 そして、更には、三木城の修築も始めだしたのでした。

 これを見た秀吉は、長治が反旗を翻したと判断し、姫路城を出て、三木城の支城の一つ野口城を包囲します。

 つまり、これが秀吉による三木城攻めの開始となりました。

 この長治の抵抗によって、それまで比較的順調に進んでいた秀吉による播磨平定は、振り出しに戻った感があり、毛利方を勇気づけることになりました。

★毛利氏の抵抗の始まり

 秀吉が播磨に進軍以降、毛利輝元は静観状態で、積極的には動きませんでしたが、別所長治の抵抗によって、にわかに動き始めます。

 具体的には、毛利輝元の二人の叔父吉川元春と小早川隆景が、三万の大軍を動員し、秀吉方に取られた上月城の奪還に動きだしたのでした。

 このため、秀吉は、三木城の別所長治を攻めるべく動きだしていました。

 この思いがけない毛利軍の上月城への攻撃を受けて、秀吉は、上月城への救援に向かったのでした。

★上月城を見捨てる羽柴秀吉

 しかし、秀吉は、三木城の別所長治と、上月城を攻めようとする毛利軍、この二つを同時に相手とするのはむずかしいと判断し、自ら上洛し、信長に援軍の要請をしました。

 ところが、信長からの回答は、「上月城は見捨てて、三木城攻めに集中しろ」ということでした。

 結局、秀吉としては信長の命令には逆らえず、いわれる通り、上月城を見捨て、再び、三木城攻めに戻ってきたのでした。

 そして、秀吉に見捨てられた形となった上月城城主・尼子勝久は、毛利軍の猛攻を受けてしまいます。

 その結果、尼子勝久は切腹し、上月城は落城してしまったのでした。

★再び別所長治の三木城への攻撃がはじまる

 三木城を攻めるために築いた平井山の陣所にもどった秀吉は、本格的な三木城攻めにとりかかります。

 ところが、三木城は簡単に落ちませんでした。

 三木城は独立した丘の上に築かれた平山城で、見た感じ、とりたてて要害堅固という感じはしません。

 しかしそのような城で、秀吉軍の攻撃を長期間にわたってはねのけたのは、

 長治以下、城兵たちの結束が固かったからでした。

 このため、秀吉は、力攻めでは簡単に落とせないとみて、得意の調略を行います。

 そして、中村忠五郎という部将にターゲットをしぼり、城内にいた彼とひそかに連絡をとり、内応を約束したのでした。

 そして、忠五郎は娘を秀吉に人質として出し、日を決めて秀吉軍が城門に近づいたとき、忠五郎が中から門を開け、秀吉軍を中に誘導するという手は

ずでした。

 ついに約束の日、城門に接近していた秀吉軍は、中から城門が開けられたので、かねての手はず通り、中村忠五郎が内応してきたものと思い、一斉に城内に駆けこんでいったところ、それは敵の罠で、城内に人った者全員、別所事に討ち取られてしまいました。

 これにより、秀吉側に人質として取られていた中村忠五郎の娘のその後の消息は伝わっていませんか、おそらく殺されてしまったと思われます。

★遂に始まる三木城の兵糧攻め

 こうして、秀吉は調略が無理だと判断し、兵糧攻めに切りかえました。

 これまでの間、毛利方が秀吉勢の裏をかいて三木城に兵糧米を送り込まれることが、この籠城を長期化していました。

 このため、秀吉は、毛利方からの兵糧搬入を遮断するため、付城をいくつも作り、付城網で完全に三木城を包囲する態勢を築きあげました。

 付城網といっても、付城と付城の間、ニキロメートルほど空くところもあり、そうした場所は警戒兵がそれこそ一間(約一・ハメートル)間隔ぐらいで昼も夜も歩哨に立って警備するという、徹底ぶりでした。

★別所長治の家臣はそれでも耐える

 そして、天正7年(1579年)に入っても籠城は続きます。

 二月には、籠城中の別所長治の兵二千二百ほどがいきなり城外に討って出て、毛利軍との連絡を確保しようとしましたが、圧倒的多数の秀吉の軍勢によって撃退されてしまい、その後は、城兵の側が積極的に動くことなくなりました。

 これは、兵糧攻めの効果があらわれ、食べるものがなくなり、動くに動けないという状況を意味していました。

★別所重棟の開城勧告

 その後、更に三木城は耐え、天正七年も暮れ、天正八年(1580年)の正月を迎えました。

 このころになると完全に兵糧は底をつき、餓死者も出はじめました。

 後年、秀吉がこの三木城攻めをさし、「三木の干殺し」といっているが、その言葉通り、城内は生き地獄の様相をみせはじめたていました。

 この状況は、城を攻める側の秀吉軍もつかんでいました。

 特に、秀吉方に属した別所一族の人間にとっては、「これ以上の犠牲は出したくない」との思いが強くあり、長治に開城勧吉をしていました。

 具体的には、長治の叔父の重棟が、講和斡旋に動きました。

 重棟は長治が初めに秀吉方になびいたとき一緒に秀吉方となり、その後、長治が毛利輝元に呼応して秀吉に反旗を翻したときにはそのまま秀吉陣営にとどまっていたのでした。

★ようやく落城する三木城

 叔父・重棟は、城内にいる長治の家臣小森与三左衛門に連絡をとり、長治への開城勧吉を申し送りました。

 長治もこれ以上の抗戦は無理と判断し、ついに開城となったのでした。

 そして、和議の条件は、長治以下の中心人物の切腹とひきかえに、城兵の命は助けるというものでした。

★別所長治の辞世の句

 長治は、開城を受け入れ、城中で別れの宴がありました。

 そして、その翌日、長治以下一族が自刃することによって足かけ20か月におよぶ長期の籠城戦は終わりました。

 ちなみに、城主長治はまだ二十三歳の若さでした。

 このときの長治の辞世の歌、「いまはただうらみもあらず。もろ人の命にかはるわが身と思へば」は広く知られています。

 城主の切腹と、城兵の助命の姿をよく伝えている句だと言われています。

★最後に

 最後に、この別所長治の立場に立って三木城の戦いを振り返ってみると、長治が毛利方からの援軍がこない中で、よく20か月も耐えぬいた驚嘆します。

 この時期、秀吉としては、本来なら三木城一つに取りかかっていられない状況でもありました。

 そうすると、秀吉軍を20か月も一つの城に釘づけにした別所長治の将としての器量は特質に値すると思われます。

 そして、その長治を落としきった秀吉のねばり強さにも驚異を感じてしまいます。

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