諸葛亮孔明は、三国志の時代に蜀の軍師、宰相として登場した人物です。
三国志の時代、それは、それまでの古い秩序が崩壊し、各地で戦乱が相次ぐ激動の時代となっていきました。
その混乱の中で、再び平和をもたらそうと、劉備玄徳と諸葛亮孔明は立ち上がります。
二人は、西暦二二一年、理想を実現するために、中国西部の山間地に新国家・蜀を建国します。
劉備は、富も権力も持たない裸一貫の身から、一国の皇帝となる壮大な夢を叶えていきました。
そして、孔明はその劉備を助け、軍師として、また宰相として手腕を発揮します。
しかし建国から二年後の二二三年、皇帝・劉備は重い病気にかかり、遠征先で臨終を迎えます。
苦しい息の下で劉備はこう言います。
「もし、我が子劉禅が君主の器であると思うなら、どうか補佐してやってほしい。しかし、もし、劉禅に才能がないと思うなら、無理をすることはない。君が劉禅にとって代わって君主となってくれ」
孔明は涙を浮かべて答えました。
「家臣はあくまで主君に忠義を尽くすのが本分です。私は、劉禅殿の補佐に徹し、死ぬまで尽くす所存です」
孔明の言葉を聞き、劉備は静かに目をつむり、息をひきとりました。
今回は、孔明の溢れる才能と、現代にも受け継がれている名言について御案内していきます。
★孔明は、孟獲を捕らえては解放して、その心をつかむ
西暦二二五年、孔明は蜀軍を率いて南方へと向かいました。
それは、南方の少数民族が相次いで反乱を起こしたためでした。
孔明は部下の馬譲と、反乱に対する対策を練ります。
そして、孔明は、「そもそも用兵の道は城を攻めるのは下手な策、心を攻めるのが上手い策という。南方諸民族の心を掴み、心服させることこそが重要であろう」と言いました。
この孔明の方針に従い、蜀軍は、反乱の首謀者・孟獲を生け捕りにしては、許してやり解放します。
そして、それは繰り返されて七度目に解放された時、孟獲はもはや逃げようとはしませんでした。
その代わりに、涙を流して孔明に服従することを誓ったのでした。
このようにして、孔明は反乱軍の心を摘むことに成功しました。
孔明はこれを機に、南方の少数民族に自治を認めます。
異質な民族同士が、法の下で共存する。それこそが、孔明の目指した社会だったのでした。
★孔明は、泣いて馬謖を斬る
南方の反乱が治まって、いよいよ亡き主君・劉備の悲願だった宿敵・魏を討つ時がやってきます。
その頃、魏は古い王朝を廃して自ら王朝を開き、都の洛陽を拠点に領土を拡大していきました。
その兵力は蜀の六倍にも及びました。
二二八年、孔明は北方へ向かって進撃を開始、緒戦は孔明が率いる蜀軍の圧勝でした。
しかし、魏の主力は反撃に転じます。孔明は、戦略上の要地である街亭という場所に部隊を派遣して、敵を食い止める作戦を立てます。
そして、その迎撃部隊の司令官に馬謖を抜擢しました。
孔明は、馬謖を自分の代役を務められる人材に育てようと思っての抜擢でした。
そして、馬謖に策を授けます。「街亭を通る街道は幅が狭いため、少ない兵力で大軍を迎え撃つのに適した場所である。必ず、この道に陣を敷いて敵を待つように」
しかし馬課は、自分の力で手柄を立て孔明に褒められたいという一心で、孔明の命令を無視し、部隊を敵の動きがよく見える山の上に登らせてしまいました。
その結果、蜀の軍は敵の軍勢に包囲され、数日のうちに水不足に陥り、敵の総攻撃に壊滅状態となってしまいます。
孔明は、せっかく占領した土地から撤退し、蜀へ帰らざるをえなくなったのでした。
このため、北方への遠征は無残な失敗に終わってしまいました。そして、孔明は、馬謖に死罪を命じます。
孔明が馬謖を評価していることを知っている人は、馬謖を許してやったらどうかと申し出がありました。 しかし、孔明は聞き入れません。
孔明は答えます。「相手が誰であろうと信賞必罰の鉄則を曲げるわけにはいかない」
孔明は泣きながら死刑の執行を命じたと言われています。
「泣いて馬謖を斬る」という言葉はここから生まれました。
★死せる孔明、生ける仲達を走らす
街亭で敗れた孔明は、次に迂回せずに、まっすぐ北上する計画を立てました。
また、同盟国を得ようと、魏の南にある呉の国に使いを送り、密約を結びました。
つまり、呉と蜀が同盟し、魏に対して同時に侵攻して挟み撃ちにする。それが、今回の孔明の作戦でした。
このため、孔明が率いる蜀軍は、北の五丈原から魏に攻め込むことになりました。
五丈原は、秦嶺山脈から突き出した巨大な台地の上に広がる原野です。
最も幅が狭まったところが五丈、およそ十六メートルしかないことからその名が付きました。
孔明は、その幅五丈に狭まった場所に本陣を築き、そのうえで、長期戦に備えて、米や麦などの種を持ち込み、五丈原の麓を兵士たちに開墾させたのでした。
ちなみに、五丈原の麓には、当時開墾されたと伝えられる田畑が今も残り、地元では諸葛田と呼ばれています。
一方、名将軍として知られた司馬懿仲達が率いる魏の軍勢は、五丈原の北方に陣を張りました。
しかし、仲達は、孔明の智略を恐れて決戦することを避け、陣内に立てこもる策をとりました。
このような準備を固めた相手に対しては、先に手を出したほうが、敵の準備策にはまってしまうこととなり、ダメージを受けることとなります。
このため、蜀・魏両軍は、にらみ合いを続けるしかありませんでした。
ところが、五月になって、孔明に思わぬ知らせが届きます。呉が進攻を諦め、魏から撤退したというのでした。
こうなると、単独で魏を討つしかありません。
孔明は軍勢を引かず、仲達とにらみ合いを続けました。
しかし、孔明に残された時間は、限られていました。
孔明は、五丈原に陣を張って三か月、人知れず血を吐くことが多くなっていたのでした。
そして、死を悟った孔明は、部下を呼んで言います。
「私が死んだ時は、決して魏に悟られないよう、何事もなかったかのようにふるまいなさい」
二三四年八月二十三日の夜、孔明は息を引き取りました。享年五十四でした。
蜀軍は、孔明の遺言通り、孔明の死を隠して撤退を開始しました。
魏の将軍・仲達は追撃したものの、蜀が反撃のそぶりを見せると、孔明の智略をおそれて、慌てて引き返しました。
その様子を後に人びとはこう評しました。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」
孔明の死後も、三十年近く蜀の国は続きましたが、二六三年、魏によって滅ぼされてしまいます。
しかし、その後中国を統一したのは、魏ではなく、かつて孔明と戦った司馬懿仲達の子孫が開いた新しい王朝・晋でした。
それは、孔明が、魏の政治のやり方では、けっして民衆のためにはならず、長続きはしないと言い続けていたことを予言したような出来事でした。
★孔明が時を超えて残したもの
生前の孔明は清貧を常としていました。
「三国志・蜀書」には、孔明が皇帝劉禅に語った次のような言葉が記されています。
「成都には桑八百株とやせた田んぼがあり、家族の生活はそれで充分やっていけます。その他に財産をつくって利益を得たいと思うことはございません」
諸葛亮孔明の子孫が暮らす浙江省の諸葛鎮の村には大公堂があり、孔明が子孫のために残した家訓「誡子書」が今に伝えられています。
それには、「優れた人は静かに身を修め、徳を養う。無欲でなければ志は立たず、おだやかでなければ道は遠い。学問は静から、オ能は学から生まれる。学ぶことで才能は開花する。志がなければ学問の完成はない」とされています。
そして、諸葛鎮の人びとは、毎年、家ごとに、この誡子書の一節を書き写し、扉に貼って自らを戒めています。
また、大公堂には試験に合格し、官僚になった歴代の村人たちの額が飾られています。
貧しくとも学問によって身を立て、世のため人のために尽くす。それが諸葛鎮の人びとに伝えられてきた教えなのでした。
諸葛亮孔明の思いは、死後千八百年たった今なお、時を超えて、静かに受け継がれているのでした。