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劉備玄徳は三国志の時代を大業を持って生きた

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 中国大陸が三つの国に分かれ、英雄たちが天下統一を日指して激しく戦っていた西暦一六一年、北京市から六十キロ南の農村・楼桑村で、劉備玄徳は誕生しました。

 父親は貧しい地方の役人でしたが、その先祖をたどれば皇帝の血を引くと言い伝えられており、劉備はいつも、俺は必ず皇帝になると話していたそうです。

 劉備が二十三歳の時、数十万人の農民による黄巾の乱が起き、中国は乱世となって人びとは戦乱に巻き込まれていきます。

 その戦乱に巻き込まれた状況を目の当たりにした劉備は、弱い民衆が苦しみを受ける世の中をなんとか変えなければならないと決意します。

 そして、劉備は、この頃に関羽と張飛に出会います。

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 共に、世の中に憤りを持ちながら日々を送っていた二人は、劉備の決意に共鳴します。

 そして、三人は、桃の木の下で、「天下の万民を救うために働き、死ぬ時は同じ日に死のう」と義兄弟となる誓いを立てたとされているのでした。

 今回は、劉備玄徳のお話を御案内します。

★劉備の前に立ちはだかる曹操

 その劉備の前に立ちはだかるのが、生涯の宿敵である曹操孟徳です。

 曹操は、自分の日的のためには手段を選ばない性格でした。

 曹操が、徐州を攻めた時は、「数十万の人びとを殺し、鶏、犬も生き残れず、川には死体が投げ込まれて、水が流れなくなった」と記されているのでした。

 曹操は、幼い皇帝を自らの意のままにして王朝の実権を奪い、独裁者として天下の覇権を握ろうとしました。

 一方で、劉備は、各地の戦場を渡り歩く日々を送っていました。

 富もなく、兵力も少ない劉備の軍勢は、強固な地盤を築くことができずにいたのでした。

 そして、二〇〇年、劉備は曹操の大軍に襲撃されてしまいます。

 その後、劉備は荊州の地に逃げ込んで、数年間にわたって無為の日々を過ごします。

 この時は、劉備はすでに四十六歳となっていました。

 劉備は「月日がたつのは早く、すでに老いも目前に迫っている。しかし私は未だに志を遂げることができない。あまりに不甲斐ない」と嘆き、涙を流したと言われています。

★劉備は「三顧の礼」で諸葛亮孔明を家臣にする

 そんなある日、劉備は、諸葛亮孔明のことを耳にします。そして、孔明の住む荊州の都・襄陽の郊外にある小さな家に向かいました。

 人々は、孔明を「臥竜」(天に昇る機会を待って臥せている竜)と呼んでいました。

 それほどに卓抜した人物だという意味でした。

 孔明は、有力な武将に仕えて出世しようとは考えていないようでした。

 このため、劉備は、孔明の心を捉えようと、三たびに渡り、孔明のもとへ訪れます。

 この「三顧の礼」に心動かされた孔明は、この熱意に応え、劉備の軍師として世に出ることを決意したのでした。

★劉備の大業

 劉備が孔明を軍師に迎えた翌年の二〇八年秋、曹操は大軍を率い、劉備がいる荊州を目指して南下を始めました。

 わずかな兵力しか持たない劉備は、またもや逃げ出さざるをえませんでした。

 その時、数十万の民衆が劉備を慕い、後を追ってついてきました。

 そして、曹操の騎兵部隊五千が劉備を迫撃しますが、劉備たちは難民をかばいながら行くために思うように進めません。

 この時、難民を見捨ててでも、まず自分たちが無事逃げのびるべきだと進言する部下に、劉備は即座に答えるのでした。

 「大業をなすには、なによりも人をもって本となす。今、自分を慕ってきてくれている人々を、むざむざと見捨てて行けるか」

 曹操の軍勢の迫撃をやっと振り切った時、劉備の周りにはわずか数十騎しか残っていませんでした。

 これは、中国史上空前の決戦、赤壁の戦いの、わずか三か月前のことでした。

★劉備は、孔明が提案する「天下三分の計」を実行に移す

 二〇八年九月、荊州に攻め込んだ曹操軍は、揚子江に面した町・江陵を占領します。

 戦いの舞台は、中国最大の河・揚子江へと移ろうとしていました。

 劉備は、かねてから孔明が提案していた、起死回生の戦略を実行に移すことを決断しました。

 その戦略とは、まず、揚予江流域を支配する孫権と手を結んで曹操の動きを止め、さらに、まだ曹操が手を伸ばしていない益州と荊州を先に占領して第三の勢カとして割拠して、三つ巴となっている間に力を蓄えたところで曹操を討ち、孫権も従えるという「天下三分の計」です。

 そのためには、まず、孫権に曹操と戦わせる気持ちを持たせて、劉備と同盟を結ばなければなりません。

 しかし、孫権は、曹操と戦う気になってくれるかが分かりません。

 このため、劉備は、孔明を使者として孫権の元に送りました。

 ちなみに、孫権の軍勢は船を使った戦いはお手のものでしたが、曹操軍とは兵力に圧倒的な差があります。孫権軍は三万ですが、一方の曹操軍はその七倍に近い二十万でした。

 その兵力からすると、孫権には、当然勝ち目はありません。

 このため、孫権は悩みます。曹操と戦うべきか、あるいは戦わずして降伏するべきか。

 孫権は、家臣との軍議の日々が続きました。そんなある日、孫権の前に孔明が現れました。

 孔明は、孫権に曹操と戦ってほしいと頼むに違いない、孫権とその家臣たちはそう思っていました。

 ところが、孔明は、「孫権殿は、もし曹操にかなわないと思われるならば、すぐに降伏なさるのがよろしいでしょう。いつまでも決めかねているのはよくないことです」と言いました。

 それに対し、孫権は「それならば、君の主君こそ、曹操に降伏すればよいではないか」と言い返します。

 すると、孔明は、さらに言いました。

 「我が主君・劉備は皇帝の血を引く人物です。その誇りがあるかぎり、曹操ごときに降伏することなどありえません。たとえ負けて討ち死にしたとしても、それは天命というものです」

 その言葉に孫権は、「劉備がそうならば、私とて十万の民を率いる君主。むざむざと曹操に屈服などしない。」と、激しく言い放ったのでした。

 孔明は、まんまと孫権を曹操に立ち向かわせることに成功したのでした。

★劉備は、赤壁の戦い後、荊州の南部を占領する

二〇八年十二月、曹操の水軍二十万人と孫権軍三万が、赤壁(湖北省、揚子江の南岸)で対時しました。

曹操軍の大船団は、川岸を埋め尽くすほどにひしめきあい、守りは固いものの、船の進退は思うようになりません。

これを見た孫権軍は、曹操軍の船団に火をかけ、焼き尽くそうと考えました。

しかし、問題は風向きです。曹操軍は、揚子江の西岸に陣取っています。

その船団に火をかけるためには、東南の風が吹かなければなりませんが、冬の揚子江流域に吹くのは北西の風です。

これでは風向きが逆で、火をかけることはできません。

しかし、火をかける前に曹操軍の大船団が動きだせば、敗北は必至です。

けれども、この時、突如として赤壁の地に東南の風が吹きました。

そして、この時を待っていた孫権軍の船は、密かに曹操軍の船団に忍び寄り、川の中ほどで、わらに火をつけ、火達磨となって突進します。

そして、曹操軍は大打撃を受けて敗北しました。

こうして、全国統一を目前にしていた曹操の野望は、すんでのところで頓挫したのです。

さらに、この戦いの行方を見守っていた劉備は、すぐに動きました。

劉備は、曹操が引き上げて空白となった荊州の南部を占領します。

こうして、劉備は、ついに、宿願だった根拠地を手に入れることに成功しました。

  それは劉備が、曹操、孫権に次ぐ第三の勢カとして自立した時でもありました。

これ以後、中国の歴史は、三つの勢力が覇を競う三つ巴の時代へと激動を続けていくことになったのでした。

★劉備を悲しませる関羽と張飛の死

赤壁の戦いから三年後、荊州の隣、益州の地に争乱が起こりました。

そして、劉備にしてみれば、この機に乗じれば、領土を拡大することができます。

ところが、劉備は「私は曹操と逆のやり方をすることで、天下の信頼を受けている。武力で国を奪うようなことをして、その信頼を失いたくはない」として益州に侵攻しようとはしませんでした。

しかし、「今、益州を取らねば、先に曹操に取られてしまう」という声に押し切られて、劉備はついに益州に兵を進めます。

劉備は、難なく益州を占領します。そして、二二一年、この地に新たな国・蜀を建国しました。

劉備とすれば、旗揚げから三十七年が経過し、ようやく一国の主になるという夢をかなえた訳ですが、その心は何となく晴れませんでした。

それは、関羽と張飛が、孫権軍の裏切りにより相次いで死を遂げたからでした。

そして、劉備は二人の仇を討つために、孔明を後に残し、一人軍勢を率いて孫権軍に戦いを挑み、孫権軍の罠にはまってしまいました。

★劉備は死後も皆に愛される

二二三年、孫権軍の罠のはまって大敗北を喫した劉備は、揚子江流域の城の中で病に倒れます。

劉備の志は、いずれ中国を統一し、平和な国を打ち立てる、というものでした。

しかし、その志を半ばにて、孔明に後を託し、息を引き取ります。享年六十三でした。

四川省成都市。かつて劉備が築いた蜀の都だったこの地に、劉備は葬られています。

その墓は、千八百年の間、一度も盗掘されたことがありません。

自分を慕う者には誰にでも優しく接して、弱い者たちを守ろうとした劉備玄徳。

その死後、劉備は、多くの民衆に愛されながら、安らかに眠り続けています。

 

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