歴史上の人物

西郷隆盛は島津斉彬のために命をかけて「生涯、女を絶つ」と誓う

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 人というのは、若かりし頃に、それが最良の方法だと思い込んで変な誓いを立てることがあります。

 幕末の英雄、西郷隆盛も三十歳の頃、ある誓いを立てて、それを手紙にして送っていました。

 その内容は、「生涯、女を絶つ」というものでした。 

 では、その誓いは、何のために立てられたのか、その誓いはどのようにして守られなかったのか、今回はその内容についてご案内します。

★西郷隆盛が誓いをたてた手紙の内容

 安政三(一八五六)年十二月一日、西郷は薩摩の市来正之丞あてに、江戸から手紙で決意のほどを知らせています。

 その内容は、「神明に参詣し、私の命に替えても男子がお生まれになるよう、生涯女子に接しない誓いをたてたところです」というものでした。

 この当時、西郷は三十歳の男ざかりでした。

 となると、生涯女に接しないという誓いには、よっぽどの意味があると思われますが、この誓いの結末は、守りきれずに、誓いを破ってしまったのでした。

 ちなみに、西郷が誓った「自分の命に替えても男子がお生まれになるように」と神明に祈り、祈りのあかしとして「不犯」の誓いを立てたというのは、西郷の主君・島津斉彬に男子が生まれるように、ということでした。

★西郷隆盛が誓いをたてた経緯

 では、なぜ、このような誓いを西郷が誓ったのかというと、当時の島津家は、有名なお家騒動、高崎くずれ(お由羅騒動)の後遺症で混乱がつづいていました。

 お由羅の産んだ子の久光をおさえて藩主になった斉彬でしたが、その斉彬の子供が次々に死んでいき、斉彬自身も原因不明の病にかかってしまったのでした。

 西郷自身は、斉彬に抜擢されて江戸に出て、重要な政策について意見をもとめられるほど信用されている立場にあるので、西郷にとって斉彬はいわば恩人でした。

 その西郷にとって、斉彬の不幸は非常に辛いものでした。

 そして、西郷は、斉彬の子供のあいつぐ病死、そして斉彬の急病の原因はお由羅の呪いではないかと思い込んでいました。

 このため、西郷は、お由羅の一味を排除するクーデターの決行を決意するほどでした。

 しかし、その決意を知った斉彬は、西郷を説得してクーデターを中止させますが、その直後に、斉彬の側室のトヨが妊娠したことが判明したのでした。

 そして、西郷は強く思います。

 今度こそは男子の出生にちがいない、いや、神に祈ってでも男子出生を勝ちとる。そのために自分は生涯の女子不犯を誓う。

 西郷が、生涯不犯を誓ったのは以上のような経緯があったからでした。

★西郷隆盛はお由羅一味の抹殺をくわだてる

 一方で、この当時、西郷は最初の妻と離婚したばかりでした。

 この結婚は、当人同士の意志ではなく、両親のいいなりの結婚だったようですが、それでも西郷のイメージの中に、女性に対する嫌悪感が高まっている頃だったとも言えます。

 そして、お由羅が斉彬に呪いをかけていると思いこんで、お由羅一味を抹殺するというクーデターをくわだてたのも、西郷の中で女性全般に対する憎悪がこり固まったことと無関係ではないと思われます。

★西郷隆盛の「命に替えても」というのは本当に死ぬつもり

 さらに、西郷は、市来にあてた手紙の中で、女子不犯を誓ったあとに、絶対に再婚はしないとも誓っています。

 そして、この再婚しないという誓いは、「女子不犯の誓いとは別の決意である」とわざわざ説明しているのです。

 しかし、少し変です。女子不犯ということであれば、当然にして再婚しないことを含むものと思われます。

 つまり、わざわざ「再婚しない決意と女子不犯の決意とは別である」と説明するまでもないことだと思われます。

 けれども、一つの誓いでいいものを、わざわざ二つの誓いに分けて誓っている辺り、この二つの誓いに何らかの差があるかどうかは、西郷自身でないと分かりません。

 しかし、文末の文書には、「私の命も、長くてあと両三年と考えます。このうちに、どうしても男子のご出生を拝見させていただきたいとの願い、山々です。」とされていました。

 つまり、手紙の始めのところの「私の命に替えても・・・」という条件提示を受けて、三年以内に「斉彬公の男子の出生」を願うというのが主体的な願望内容で、そして残り3年間の人生は再婚せず、女子不犯とするので、この願いを是非叶えてほしいということが補足的な条件提示ということになります。

 いずれにせよ、この手紙を書いたときの西郷の精神状態は、相当に思い詰めた状態であることは間違いなく、混乱した心境だったものと思われます。

★西郷隆盛の行動は、いつも命懸け

 ちなみに、西郷は後年、明治政府の中で、征韓論が認められず、結果的に政府を去ります。

 この時の西郷の主張は、西郷自身が当時鎖国している朝鮮に渡って開国を要求する、すると西郷は朝鮮で殺されてしまうので、その怒りで日本から一斉に朝鮮に攻撃をしかけて朝鮮を併合してしまい、来るべきロシアからの攻撃に備えるというものでした。

 また、西郷の最期となる西南戦争でも、西郷は戦いを、作戦立てて指揮などを行っていた形跡があまりなく、負けるべきして負けた感があるとも言われており、そういう意味では、西郷は各地で勃発する旧士族の反乱を抑えるために、自らを犠牲になったとも読み取れるのでした。

 このように、西郷のストーリーの中心には、自分自身の死を描くことが多いようです。

西郷隆盛が起こした西南戦争のきっかけは大久保利通の罠だった?

★西郷隆盛の誓いはどうなったのか?

 その後、西郷の誓いはどのようにして破られていったのでしょうか。

 というよりは、西郷がこの手紙をしたためてから一年半後、鹿児島に帰っていた島津斉彬が急死してしまうのでした。

 西郷は、一度は殉死の決意までしましたが、京都清水寺の僧の月照にはげまされ、生きる決意をかためました。

 そして、幕府に命をねらわれる月照をともなって薩摩に戻りますが、二人をかくまってくれるはずの薩摩の空気は、まるで敵地のようでした。

 このため、途方にくれた西郷と月照は、ともに抱いて錦江湾に投身自殺を図ります。

 その結果、月照は死にましたが、西郷は息を吹きかえしたのでした。

 その後、西郷は、奄美大島に亡命して生きることになったときの心境を「船を失って孤島にたたずむ」と表現しています。

 そして、恥辱にまみれた後半生だが、ともかくも生きると決意した西郷は、大島の娘とのあいだに男子をもうけ、「ケシカランことですが、このたぴ男子を得ました。お笑いください」と、鹿児島の同志に知らせているのでした。

★最後に

 その後、奄美大島から戻ったあとの西郷は、御承知のとおり目覚ましい活躍を見せることになります。

 そのような西郷の活躍も、今回御紹介した内容からも伝わってくるように、いつも命がけの行動があってこそのことだったのかも知れません。

 

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