歴史上の人物

上杉鷹山の財政改革と名言は、今も祭りとともに伝えられる

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 江戸時代、米沢藩の藩主だった上杉家は、その先祖を戦国の雄・上杉謙信とする由緒ある家柄です。

 もともとは、越後方面の所轄していましたが、謙信の死後、上杉家の領地は秀吉により東北に移されます。

 その後、関ケ原の戦いで西軍方についたため、江戸時代は三十万石へと大きく減封されます。

 そしてさらに、藩主の急死によって十五万石にまで減らされたので、藩の財政は慢性的な赤字に悩まされていました。

 そして、その上杉家に、鷹山は九州の大名家から養子として入り、十七歳の若さで米沢藩の藩主となります。

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 鷹山は、様々な財政改革に着手するも改革反対派に猛烈な反対にあい、それも乗り越えて改革を実行するも頓挫して、一旦は諦めるものの再度改革に着手して、鷹山が七十二歳で亡くなった翌年に藩は借金を全額返済することができたというものです。

 今回は、この上杉鷹山の財政改革のお話をご案内させていただきます。

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★上杉鷹山は自分の倹約から始める

 鷹山の財政改革で、まず行ったのは、藩主自ら倹約することでした。

 木綿の衣服に一汁一菜としました。

 そして、藩主の生活費をそれまでの七分の一にまで切り詰めまたのでした。

 これは、財政改革の理念を自ら示すことで、藩全体に倹約を促そうとしたものでした。

 そして、収入源を確保するため、新しい田んぼを開発するよう指示します。

 このため、鷹山自身も、自ら率先して鍬をふるい、家臣総出で開墾に着手しました。

 その延べ人数は一万三千人にものぼりました。

★上杉鷹山は七家騒動で直接談判を受ける

 しかし、この鷹山の改革は藩の重臣たちの激しい反発にあいます。

 その中心人物、藩の儒学者・藁科立沢でした。

 藁科は、改革に不満を持つ重臣を募って、鷹山に異議申し立てを行います。

 安永二(一七七三)年六月二十七日、重臣七人が改革の一切をやめるように鷹山に直接談判を行いました。

 これは「七家騒動」と言われています。

 重臣たちは建言書で改革を・痛烈に批判します。

 その内容は、

 「一汁一菜や木綿の衣は小事に過ぎない。武士に農業をさせるのは、鹿を馬と混同するような馬鹿げたことだ。鷹山の改革は筋違いである」

というものでした。

★上杉鷹山が重臣に厳しい処分を下す

 しかし、直接談判を受けた三日後、鷹山は重臣たちに厳しい処罰を言い渡しました。

 その内容は、二人が切腹、五人が隠居閉門。

 さらに、中心となった藁科立沢は打ち首というものでした。

 鷹山は、財政改革に立ちはだかる保守派を実力で排除したのでした。

 そして、鷹山は、家臣の竹俣当綱を腹心として、本格的な財政改革に乗り出していくのでした。

★新産業プロジェクトの失敗

 財政改革の中で、竹俣は鷹山に「樹養篇」と呼ばれるプランを献上しました。

 つまり、新たな産業を興すことで収入を取り戻そうというものです。

 その中心は、滋か木百万本を藩全体に植えさせ、採れた実を藩が買い上げ、それでつくった漆ロウを専売しようというものでした。

 そして、このプランは実施されます。

 しかし、同じ頃、西日本でハゼから採るハゼロウが登場してしまいました。

 さらに、このハゼロウは、漆ロウより品質がよく、収量も多かったため、米沢の漆ロウは市場から排除されてしまうのでした。

★竹俣当綱と莅戸善政の離脱

 加えて、天明二(一七八二)年、竹俣当綱が周囲から非難を受けることをしでかします。

 それは、米沢藩では、初代謙信の命日には酒を飲んではいけないしきたりだったにもかかわらず、朝まで飲み明かしてしまったのでした。

 このため、鷹山は、やむを得ず竹俣を隠居させ、禁固の刑に処します。

 そして、さらに竹俣の処分から半年後、協力者だった莅戸善政も隠居を願い出ます。

 鷹山はこれで腹心の家臣を二人も失ってしまいました。

★さらに天明の大飢饉が起こる

 天明三(一七八三)年七月、信州浅間山が大噴火を起こし、「天明の大飢饉」が起こります。

 このため、米沢藩の財政は一気に悪化してしまいます。

 さらにその五か月後、先代・重定の御殿が焼失、重定は新しい御殿の建築に着手しました。

 つまり、米沢藩は、飢饉と御殿の建築とが重なり、藩の財政状況はさらに悪化するのでした。

★上杉鷹山の財政改革の挫折

 この結果、結局、財政改革は挫折してしまいます。

 そして、財政改革を諦めた鷹山は、三十五歳で藩主の座を退くことになりました。

 しかし、新しい藩主の就任の儀式など巨額の出費で、米沢藩の財政状況はさらに悪化していくのでした。

★米沢藩は財政が悪化していくとどうなるか

 前述のとおり、米沢藩の財政はひっ迫したため、藩はこの対応策として、家臣の給料カットで対応しました。

 この結果、それまで中級武士の給料は年間米十八俵でしたが、三三%もカットされてしまいました。

 生活に困った藩士の中には、年貢徴収で不正をはたらく者も出てきます。

 つまり、農民たちから余分に年貢を徴収し、差額を懐に入れたのです。

 そして、重税に耐えかねて、農民たちは田畑を捨てて逃げていきました。

 このため、城下町では品物が売れなくなり、商人が藩に納める税金も激減します。

 さらに、かつては十三万人あった人口も三万人以上減り、九万人台まで落ち込んでいました。

 これは当時藩士のあいだで密かに出回っていた、政治を批判する文書です。

 「藩の上層部は領民の身の肉まで取り上げ、不埒千万である。政治の混乱は賢君、鷹山を隠居にしたためである」

 鷹山もこうした藩の惨状に心を傷めていました。

 改革や倹約を何度行っても経済は乱れ、借金はかさむばかりでした。

 この上は、広く藩の衆議を行い、上下一致するしかない。

 鷹山は再び改革の舵取りを担う決意を固めていったのでした。

★上杉鷹山が再び財政改革に着手する

 寛政二(一七九〇)年十一月、鷹山は藩士に対して、財政改革への意見書を提出するように求めました。

 そして、この時、鷹山は藩の上層部だけにしか知らされていなかった財政状態を公開し、その年だけでも二万五千両の赤字が生じていること、藩の借金が総額三十万両を超えていることを包み隠さず明らかにしました。

 藩士たちから寄せられた三百四十通もの意見書の多くは、鷹山の腹心だった荏戸善政を再び登用せよと訴えていました。

 寛政三(一七九一)年一月二十九日、鷹山はこの声を背景に再び財政改革に立ち上がります。

 そして、荏戸善政を米沢藩の中老に抜擢し、新たな財政改革のプランを作成させました。

 この新しい財政改革プランは、商業や流通の規制を緩和して産業を興し増収を計るなど、四十七か条からなる積極的な財政再建のプランでした。

 そして、そのプランの一番目として挙げられたのが、広く改革への提言を求める上書箱の設置でした。

 この上書箱へは、武士だけでなく、農民、町人からの意見も受け付けました。

 これは、政治への不信感を払拭するのが狙いでした。

 そして、実際に上書箱に寄せられた意見の中から、門閥や家柄にとらわれず、積極的に採用された優れた意見もでてきました。

 また、その中には、かつての反対派からの意見も含まれていました。

 書いたのは、七家騒動の際に打ち首になった藁科立沢の息子・立遠でした。藁科の意見は、漆百万本計画を批判したうえで、桑を増やし、養蚕をすることで市民が繁昌すると提言していました。

 これを受けて鷹山は、自分の生活費をつぎ込んで桑の苗木の無料配布を開始します。

 桑畑にかけていた税金も廃止し、養蚕の技術指導を行うなど、農民の生産意欲を高めようとしていきました。

★成功した財政再建

 鷹山が無料で配布した桑の苗木から始まった再びの財政改革は、その後、米沢藩全体の桑の木が百五十万本にまで普及しました。

 この鷹山の政策で米沢の人びとは、やる気を取り戻し、藩の経済も黒字に転じていきました。

 そして、時は流れて文政五(一八二二)年三月十二日、鷹山は七十二歳で亡くなりました。

 しかし、その翌年、米沢藩は借金のほとんどを返し終えることができたのでした。

 これは、鷹山が隠居した後、再び桑の苗木から始めた財政改革の開始から、実に三十三年目のことでした。

 そして、米沢では、今も米沢の財政危機を救った鷹山を記念して毎年祭りが行われでいます。

 このお祭で、行列の人びとが手にする提灯は、かつて鷹山が改革のシンボルとして点した火種を受け継ごうというものです。

 また、米沢市の北にある白鷹町は、鷹山以来養蚕の盛んな地域として知られています。

 そして、この白鷹町には地元の農家の人びとから厚い信仰を集める「養蚕殿」があります。

 その中央には、養蚕の神様として白馬にまたがった鷹山の像が祭られています。

 農民の声に耳を傾け、改革の志を貰いた上杉鷹山。

 十七歳から始まったその改革は、半世紀の歳月を経てようやく成し遂げられたものでした。

 鷹山が残した言葉に有名な言葉があります。

 「成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり」

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