歴史上の人物

石田三成が武断派大名に慕われていれば豊臣の天下は続いたか?

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 石田三成というと、どのようなイメージをお持ちですか。

 神経質なイメージはありますね。そして、加藤清正、福島正則、黒田長政などの豊臣恩顧の武断派大名からは非常に嫌われていたようです。

 実際、それが原因で、関ヶ原の戦いでは、彼は、当然味方してくれると思っていた豊臣恩顧の武断派大名は徳川家康側に味方し、彼は茫然自失となってしまいます。

 また、関ヶ原の戦いで、薩摩藩の島津義弘のように、機嫌を害させ、参戦したものの戦わなかった大名もおり、もう少し気配りができていればとも思えることもあります。

 しかし、一方で、地方の大名が彼を頼ってきたときは、とても親身になって相談に乗ってやるなど、相手に頼りにされると男気を見せることも多分にあったようです。

 また、領地経営も優れており、彼の領地だった佐和山城下を、武田信玄のような運営とまで評する声もありました。

 今回は、この石田三成のお話を御案内します。

★石田三成は秀吉に仕官する

  長浜城の城主となった羽柴秀吉は、城下町に市を開き、鍛冶などの工業を奨励、長浜はまたたく間に、商業都市として生まれ変わっていきます。

 その秀吉の領国経営に心酔した若者がいました。

 彼の名前は、石田三成。地元の豪族の息子でした。

 そして、天正五(一五七七)年、三成が十八歳の時に、父・正継、兄・正澄と同じように秀吉に仕官します。

 秀吉はまだ何の実績もない三成に三百石もの高い禄を与え、家臣に召し抱えたのでした。

★石田三成は太閤検地を実施して実力を発揮する

 天正十八(一五九十)年、秀吉は天下統一を果たします。

 そして、その家臣である三成は、戦乱から太平へと時代が大きく転換し始める中で、その真価を発揮していきました。

 その一つが太閤検地です。

 三成はそれまでの領主が自ら申告する方式を改めて、国中の農村に直接赴き、土地を測り直したのでした。

 その結果、国全体の大名の力が正確に把握できるようになりました。

 また、この太閤検地に伴い、三成は長さや体積の単位を全国的に統一します。

 その結果、流通が円滑になり、商業は大きく発展することになりました。

 まさに、秀吉が行なった経済の活性化は三成なくしてはありえませんでした。

 このように、緻密な計算が得意で、経済感覚に長けた三成は、こうして秀吉の右腕としてその才能を発揮するようになりました。

★石田三成は自信の出世よりも統一国家の建設を目指す

 秀吉は三成の功績を認め、筑前・筑後三十三万石の大名になることを勧めます。

 所領が倍増する破格の加増でした。 

 しかし三成は、これを「私が九州の大名になってしまったら、大坂で政務を司る人がいなくなります。」と秀吉に言って辞退したのでした。

 三成にとっては、自分の所領を増やすよりも、いち早く統一国家を建設し、国全体に秩序と繁栄を取り戻すことこそが生き甲斐だったのでした。

★石田三成の運命の歯車が狂いだした秀吉の死去

 しかし、慶長三(一五九八)年八月十八日、主君・秀吉がこの世を去ってしまいます。

 秀吉亡き後、わずか六歳の後継者・秀頼が残されました。

 そんな中、徳川家康は、秀吉の喪が明けぬうちに我が物顔で動き始めます。

 この行動をみた三成は、「再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけない」と、家康を警戒するのでした。

 これは関ケ原の戦ぃが始まる二年前のことでした。

★石田三成が徳川家康の勝手な振舞いをけん制

 そして、秀吉死去から四か月後の慶長三年冬、徳川家康は突然、諸大名との縁組みを盛んに進め始めました。

 大名同士の縁組みは、特定の大名が勢力を拡大することになるため、秀吉の生前から固く禁じられた行為でした。

 このため、三成は対抗手段として五大老・五奉行制に訴え、家康の行動を糾弾しました。

 さしもの家康も大名同士の縁談をあきらめざるをえなくなりました。

★豊臣恩顧の武闘派大名から襲撃を受ける

 しかし、慶長四(一五九九)年閏三月三日、家康を牽制できる唯一の大名であり、五大老の一人でもある前田利家が亡くなってしまいます。

 石田三成にとって、これはまたもや大きな味方を失ったことになりました。

 そして、その夜、三成は加藤清正、福島正則ら豊臣恩顧の武断派大名七人から襲撃を受けました。

 彼らは、朝鮮出兵より三成と反りが合わず、帰国後も奉行として幅をきかす三成に反感を募らせていたのでした。

 この襲撃に三成は間一髪で襲撃を免れます。

 そして、これを仲裁してくれたのが、家康でした。

 家康は、武断派七人を説得し、さらなる襲撃をあきらめさせたてくれました。

 この後、三成は家康から告げられました。

 「今回の騒動は、三成殿にも責任がある。自国に戻って一、二年謹慎されよ」

 三成は、襲撃から八日後、近江,佐和山の居城に謹慎処分となりました。

 つまり、三成は、秀吉の死からわずか半年足らずで、豊臣政権の中枢から追放されてしまったのでした。

★さらに勝手な行動が目立つ徳川家康

 三成の追放によって、邪魔者がいなくなった家康は、次第に権力への意志を顕にするようになります。

 慶長四年九月には豊臣・の本拠・大坂城に入城、秀頼の後見役におさまり、大名たちの所領を独断で加増し始めます。

 さらに、翌年の六月十六日には、五大老の一人・上杉景勝の武力討伐に向かいました。

 これに対し三成は、「今度の家康公の行いは太閤様にそむき、秀頼様を見捨てるが如き行いである。」という家康への弾劾状を起します。

 それに呼応して、毛利輝元が、総大将として大坂城に入り、状況をながめていた西国大名たちは、雪崩を打って大坂城に結集、九万を超える関ケ原の「西軍」が誕生したのでした。

★石田三成は伏見城を落城させる

 西軍として決起した三成は、手始めに家康の西の本拠である伏見城を攻め落とします。

 家康は、急遽江戸に引き返しました。

 西に九万を超す西軍、北には三万の上杉軍。

 挟み撃ちにあえば、ひとたまりもありません。

 家康は江戸から動けなくなってしまいました。

★西軍の東方への進軍

 慶長五年(1600年)8月1日、西軍は、家康がいる江戸を目指して兵を進めました。

 三成は東軍の豊臣恩顧の大名たちに、「秀頼の命」という大義を掲げた家康弾劾状を送りつけました。

 彼らが味方に付けば、八万の東軍のうち五万が西軍に変わります。

 それは「家康包囲網」というべき鉄壁の布陣のはずでした。

 そして、八月十一日、三成の率いる美濃方面軍は伊勢方面軍と合流するために大垣城に入ります。

 ところが八月十三日、東軍の先鋒四万五千人が大垣から二十五キロ離れた尾張・清洲城に突然現われます。

 三成を驚かせたのは、東軍の先鋒を務めたのが福島正則・黒田長政ら秀吉への忠誠心が強いことで知られた武将だったことでした。

 東軍内部では、「今度の戦を指揮しているのは秀頼公ではなく、石田三成である。三成が裏で操っているのだ」と言われていたためでした。

 「豊臣恩顧の武将が家康になびくわけがない」と考えていた三成の自信は揺らぎ始めます。

 三成は戦略を見直し、大坂城にいる西軍の総大将・毛利輝元の出馬を要請しますが、毛利輝元は一向に大坂城から動きません。

 実はこの時、家康と毛利配下の大名の間で、「戦闘に参加しなければ、毛利の所領は保証する」という密約が交わされていたためでした。

 やがて三成も、諸将が家康に諜報されていることを感づいていきます。

 九月十二日、三成は、仲間に「人の心 計りがたし」と書き送ったといいます。

 九月十四日、三成のいる大垣城から四キロの地点に家康が着陣しました。その夜、三成は軍勢を集め、明日早朝の出陣を告げます。

★関ヶ原の戦いの始まり

 そして慶長五年九月十五日、関ケ原の戦いが始まりました。

 豊臣政権による統一国家を守ろうとする石田三成の西軍は八万五千人。対するは次なる天下人を狙う徳川家康の東軍七万五千人。

 数の上では西軍が優位でした。

 午前八時、東軍は三成隊に襲いかかります。

 三成隊は長槍で応戦、東軍先鋒部隊を撃退します。

 三成は山の上に布陣する味方に加勢を求めます。

 しかし彼らは動きません。

 西軍で必死になって戦っているのは宇喜多秀家、小西行長、そして大谷吉継の隊だけでした。

 午後一時、大谷隊は持ちこたえられずついに全滅、吉継は命を落としました。

 さらに宇喜多、小西の隊も敗走します。

 残るは三成隊だけとなりました。

 東軍諸隊が四方八方から攻め寄せて来ます。

 三成隊は奮戦します。その様子は、「三成は戦下手と評されていたが、その戦いぶりは尋常ではなかった」と記録されています。

 しかし、さしもの三成隊兵士たちも消耗していきます。

 一人、また一人と壮絶な討ち死にを遂げ、午後一蒔、三成隊はついに全威、関ケ原の戦いは東軍・家康の勝利で終わりを告げました。

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★石田三成は関ヶ原の戦いで敗れて単身逃げる

 滋賀県木之本町の山中に苔むした洞窟があります。

 関ケ原の戦いに敗れた石田三成は、一人落ち延び、この洞窟に身を隠したと言い伝えられています 。

 しかし、六日後、追ってにつかまり京へ護送され、市中引き回しの上、鴨川のほとりで処刑されました。

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★質素倹約を心掛けたことが分かる石田三成の居城

 また、関ケ原の戦い後、三成の居城・佐和山城も落城しました。

 佐和山城を攻めたのは、小早川、脇坂など、関ケ原で東軍に寝返った武将たちでしたが、彼らは城内のたたずまいを見て襟を正します。

 豊臣の奉行を務めた男の居城とは思えぬほど、三成の城は質素そのものでした。

 何よりも再び天下が乱れることを憂えた男の一途な生き様力そこにありました。

 最後になりますが、もし仮に、三成が豊臣恩顧の武断派大名と仲が悪くなかったら、徳川幕府の時代は来なかったでしょうか。

 これをもし、仮に、関ヶ原の戦いに勝っていたかという題目にすると、野戦を得意とする家康なので、やっぱり家康は勝っていたような気がしますね。

 しかし、もし仮に、三成が武断派と仲が良ければ(悪くなければ)、そもそも関ヶ原の戦いという武力衝突は生じなかったと思われますので、そのまま豊臣の世の中だったのかもしれませんね。

 

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