歴史上の人物

藤原道長は、歌を、傲り高ぶり詠んだのか?

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★藤原道長とは教科書に必ず出てくる人物

 藤原道長と言えば、平安時代を代表する貴族です。

 皆さんが、中学・高校時代の日本史の教科書にも必ず登場する人物だと思います。

 そして、そんな藤原道長が詠んだ歌で、有名なものが次のようなものです。

 「この世をば、わが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば。」(この世は自分のためにあるようなものだ。望月(満月)のように足りないものは何もないと思えるから)

 なんとも、自信満々、得意満面で詠まれた歌のようですね。

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 ちなみに、この歌を詠んだ日は、道長の三女威子が、時の天皇の後一条天皇に嫁入りした日 での祝いの宴であったと言われています。

 しかし、一方で、この歌は、道長が絶頂期の中で得意満面に詠んだ歌だという説と、不安で不安で仕方がない中で婚姻が結ばれ安堵して詠まれた歌だという説もあります。

 実際、道長は、この歌を詠んだ時には、身体は病(糖尿病と言われている)に侵されており、ほとんど視力がなかったとも言われています。

 

 では、本当はどうだったのでしょうか。

 

★藤原氏の成り立ち

 藤原氏の先祖は、大化の改新の一役を担った中臣鎌足です。

 大化の改新の功績により、鎌足の息子・不比等が、藤原の姓を時の天皇より賜りました

 その後、不比等は、娘を天皇家に嫁がせ、外戚を保つことにより勢力を広げていきます。

 ちなみに、不比等には4人の息子がおり、それぞれ藤原南家、藤原北家、藤原式家、藤原京家として、奈良・平安時代に活躍していきました。

 道長は、その当時の公卿の中で最大勢力であった藤原南家になります。

★藤原道長の誕生

 966年、道長は藤原兼家の五男として生まれました。

 道長が生まれた当時、父・兼家は、貴族同士の権力争いの中、実兄の陰謀に合い、蟄居の憂き目にあいました。真に骨肉の争いの中での誕生でした。

  また、道長の母も身分の高い貴族の出ではありませんでした。

 そして、道長はましてや五男、道長が出世するのは難しいと思われていました。

 このような環境で育った道長ですから、幼き頃から争いごとを好まないタイプの子供だったと言われており、ましてや兄達を差し置いて、朝廷で活躍することなど少しも考えていなかったそうです。

 

★道長の人生の好機

 

 しかし、道長が22歳との転機が訪れます。左大臣・源雅信の娘・倫子との結婚です。

 当時の結婚は、夫が妻の家に入る婿入り婚です。つまり、妻の家柄が夫の出世に大きく左右するのでした。

 父・兼家が復権した中、時の円融天皇に嫁がせて詮子(道長の姉)が、男の子を生み、一条天皇として即位しました。

 これに伴い、父兼家は、天皇の外祖父となって摂政の位置を得て、貴族のトップに立ち大きな権力を得ることになりました。

 また、道長も、父兼家の後押しで出世して26歳で大納言となります。

 しかし、道長には実兄が上の位についており、この当時は、道長が、貴族のトップに立つということは難しいように思われました。

 その後、道長30歳のとき、都で疫病が大流行し、多くの公卿が病死していきます。

 道長の兄たちも病死してしまいました。

 一方、生来病弱だった道長ですが、この時ばかりは無事でした。

 この疫病では多くの公卿が命を落とし、残ったのは七人。

 その中で関白の地位につける家柄は、道長と甥(兄の子)・伊周の二人だけでした。

 

★ライバルである伊周との争い

 伊周は、道長の甥で8歳年下でしたが、官職は内大臣と、大納言の道長よりも高いくらいにありました。

 このため、時の一条天皇は伊周を関白にしようと考えていました。

 しかし、ここで道長の姉・詮子が道長の肩を持ちます。

 詮子は、息子である一条天皇に、涙ながらに弟道長の出世を訴えたといいます。

 その結果、道長は関白に準じる内覧に就任しました。

 ちなみに、内覧とは聞きなれませんが、摂政や関白とほぼ同じ仕事になります。

 一方、ライバルであった伊周は、これにより道長に強烈なライバル心を抱くようになります。

 ある時は、伊周が道長に言いがかりをつけ、宮廷で掴みかかられ言い争いになったこともありました。

 また、伊周の従人が、道長の従人を殺してしまうという事件も発生しました。

 しかし、これに対して、道長は耐えました。それは、かつて、自分の父親の骨肉の争いを見てきたことから、甥っ子との間で、大きな騒ぎを起こし、自分の骨肉の争いをしたくないという気持ちが強かったとのだと言います。

 

 一方、伊周は女性問題が拗れて乱心行為を起こし、地方へ島流しとなりました。

 これにより、道長のライバルはいなくなり、左大臣へと昇進し、政権を名実ともに担うことになりました。

 

★藤原道長の絶頂期と政権からの引退

 ライバルである伊周がいなくなって、ここから20年以上、道長は公卿のトップに立ち続けました。

 これは、自らの権力を誇示し続けるというより、骨肉の争いをできるだけ避けるための安定政権を目指すためのものだとも言われています。

 安定政権を目指すため、自分がトップで居続けなければならない。このため、道長は、娘たちを天皇家に嫁がせ、外戚関係を利用していきます。

 まず、一条天皇の元へ長女・彰子を嫁がせました。

 この縁談により、一条天皇の子として1008年敦成親王が、更に翌1009年敦良親王が誕生します。

 つまり、道長は、二人の孫を天皇の子ととして得ることになります。

 

 しかし、1011年一条天皇が退位し、道長とは外戚関係のない三条天皇が即位します。

 ただ、三条天皇の皇太子には、孫である敦成親王がなりましたが、万全を期すため、道長は三条天皇に娘を嫁がせます。しかし、残念ながら男の子が生まれなかったため、反対に道長は三条天皇に病を理由に退位を求めます。

 事実、三条天皇は糖尿病により視力がほとんどなく、執務にも支障を来していたため、三条天皇の息子の敦明親王を皇太子とすることを条件に退位しました。

 そして、1016年、道長の孫の敦成親王が即位し後一条天皇となります。

 藤原氏の頂点となってから21年、道長は初めて摂政となります。

 その後、1017年、三条天皇が亡くなると、後見人が亡くなったことに悲しんだ三条天皇の息子であった敦明親王が皇太子を自ら辞退します。

 このため、新しく皇太子となったのは、道長の孫の敦良親王でした。

 これによって、道長の孫が2代続けて天皇となることが約束されました。

 しかし、それでも道長は手を緩めることなく、三女・威子を孫である後一条天皇の中宮として入内させます。

 三代にわたって、自分の娘を妃として送り込んだ道長、これは、前代未聞のことで、道長が栄華を極めた最大の理由です。

 そして、この三女・威子と孫・後一条天皇とのお祝いの宴で、あの歌が詠まれることになるのです。

 「この世をば、わが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば。」(この世は自分のためにあるようなものだ。望月(満月)のように足りないものは何もないと思えるから)

 孫と娘とを婚姻させるという、当時でも珍しく、現代ではありえない祝いの席での歌でした。

 全てを手に入れ栄華を誇った道長、しかし病には勝てませんでした

 元々、道長は生来病気がちで、この歌を詠んだ頃は殆ど目が見えていなかったとも言われています

 そして、この直後、道長は、政権の座を息子・頼通に譲り、自らは出家しました。

 

★道長による平安貴族文化の繁栄

 

 道長と同じ時代に生きた清少納言は、一条天皇の正室・定子に仕えていました。

 そして、文才のあった彼女は、宮廷での生活を枕草子に描きました。

 これらにより華やかな宮廷文化が花開いていきます。

 一方、道長は、一条天皇の中宮となっていた道長の長女・彰子に、女房という教育係をつけました。

 これには、元々、一条天皇の正室・定子が、一条天皇のお気に入りでした。一条天皇は彰子に余り興味をしましませんでした。

 このため、何とかしなければいけない。一条天皇は、高い教養に興味を示すことが分かったので、道長は、彰子に高い教養を求め、琴、琵琶、和歌、書、中国古典、漢詩まで習わせました。

 つまり、道長の作戦は、彰子の教養を高めて、一条天皇の愛を彰子に向けさせるというものでした

 その要求に答えて女房という教育係と務めたのが、百人一首でおなじみの和泉式部、源氏物語の作者となる紫式部でした。

 道長は彼女たちのパトロンとなり金銭は一切惜しみませんでした

 

 特に、紫式部のためには、部屋、墨や紙、書物などを与えます

 彼女たちを推したことで、この時代のかな文字の女流文学が育っていったのです。

 結果として大きく花開いた宮廷文化も道長の栄華の象徴です

★息子・藤原頼通の繁栄

 道長の後を継いだ頼通は、3代の天皇を38年にわたり関白を務めます。

 この間は、道長の望んだ骨肉の争いのない安定政権の時代でした。

 これも道長が天皇家との結びつきを強固にし、繁栄の基礎を築いたからだと言えます。

 また、京都府宇治市に、藤原道長の別荘がありました。

 道長の死後、息子の頼通によってここに建てられたのが、10円玉に描かれている世界遺産平等院鳳凰堂です。

 「極楽いぶかしくは宇治の御堂をうやまうべし」と歌で歌われたほどの絢爛さでした。

 

★最後に

 

 その後、1027年に、道長は62歳で死去します。

 

 最後に、あの歌と詠んだ時、道長の気持ちはどのようなものだったのでしょうか?

 何もかも、自分の思い通りになったことに、本当に得意満面の中での歌だったのでしょうか。

 それとも、老いて病がとの戦いの中、不安で不安で仕方がない中で、子供と孫を結婚させるという荒業を行い、ホッとした安堵の気持ちで詠まれた歌なのでしょうか。

 恐らくは、後者の可能性が高いのでしょうね。

 

 一方で、子供と孫を結婚させることにより、骨肉の争いのない、平和な時代がくることをとても喜んでいたという学者さんの話も聞いたことがあります。

 これは、いくらなんでも、道長を美化させているように思いますね。

 いずれにせよ、「この世は、自分の思いのままになる世の中だ。」という歌を詠んでいるのですから、そんな歌を詠む人が、平和が一番ということをとっても喜んでいるということに若干の違和感を覚えます。

 しかしながら、道長が行った外戚関係を強く結んでいくという行為は、貴族同士の無用な争いごとを避け、平安貴族文化を育むいう結果となった訳ですから、やはり平安貴族の代表的な人物であることは間違いないことだと思われます。

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