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鎌倉幕府の執権政治ってなに?

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★北条氏の執権政治ってなに?

 鎌倉幕府を開いたのは、源氏の棟梁であった源頼朝ですが、鎌倉幕府には独自の役職として執権というものがあり、この執権が実質上将軍以上に権力を持っていたとされています。

 執権というのは、将軍に成り代わって執政を行う役職ですが、上の人に成り代わって執政というと、天皇に成り代わって執政を行っていた平安時代の摂政、関白のようですが、執権との大きな違いは、執権は世襲制であったということかと思われます。

 そして、この執権を世襲したのが北条氏です。北条氏は、初代執権・北条時政から始まる執権政治により鎌倉時代に栄華を誇りました。

 これは、鎌倉幕府は、将軍の時代ではなく、実質的には北条氏の執権政治の時代であったと言えます。

 それでは、なぜ、鎌倉幕府に執権政治ができたのか、北条氏はどのようにして、鎌倉幕府を実質的に支配できるようになったのか、今回はその内容を御案内します。

 

★源頼朝の流罪

 北条時政は、現在の静岡県韮山(伊豆の国市)に在庁官人と呼ばれた地方役人でした。

 その当時、周囲には、武田、新田といった大きな勢力の豪族がおり、北条氏は領地も家来も少ない弱小の武士団でした。

 そんな、田舎町の役人にあった時政のところに、突然に大きな出来事が生じます。

 それは、平治の乱で平清盛に敗れた源氏の三男・源頼朝が流罪により、伊豆に流されてくるので、監視をするようにとの命令でした。

 1160年、時政が23歳のときの出来事でした。

 

★源頼朝と北条政子との結婚

 しかし、流罪の身でありながら、頼朝は時政の長女・政子と恋仲におちてしまいます。

 これを知った時政は、一旦は激怒しますが、一旦は二人の関係を黙認、やがて結婚を認めることになりました。

 実は、時政は、自分の娘10人を京都公家や有力東国武士団に嫁がせ、関係を築いていました。

 この当時、こういった姻戚関係は、重要な外交手段で、時政も常に周囲の状況をみて姻戚関係を築いていたところでしたので、その一環として認めたものだと思われます。

★朝廷から頼朝に届いた平家討伐の命令

 一方、京都の中央政権の状況に変化が出始めます。

 この当時、平家が政治の中核を担って栄華を誇っていましたが、調子に乗りすぎた余り、「平家にあらずば人にあらず」と言って、他の勢力を排除し続け、反平家の気運が高まり始めます。

 そして、ついには朝廷から、頼朝に「平家追討の令旨」が届きました。

 これを知った北条時政は、頼朝に対し「兵を挙げれば日本国は頼朝殿の手中にあるも同然です。」と囁き、頼朝に挙兵を促しました。

 1180年、頼朝は、時政の援軍を受けて挙兵しました。すると、平家の圧政に不平を持った東国武士たちが頼朝の元に集結し、5年に渡る源平合戦の末、平家を滅亡させました。

 

★鎌倉幕府の始まり

 平家を滅ぼした功績により、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開きます。

 そして、頼朝と結婚した政子の存在により、幕府に最も近い存在になった北条氏。

 頼朝の政治は、武士の立場に立った、善政であったといいます。

 平家の統治時代に不満をためていた東国武士たちも、頼朝の所領の安堵と土地の権利を認める施策を歓迎しました。

 

★源頼朝の死と北条家の策略と陰謀

 源頼朝が将軍となってから7年、頼朝は突然の落馬事故で死亡してしまいます。

 この頼朝死亡により、2代将軍となったのは、頼朝の長男・頼家で、時政の孫、政子の子に当たります。

 しかし、幕府内は、カリスマ的な存在であった頼朝がいなくなり、権力争い的なことが絶えず、混沌とした状況でした。

 そんな中、時政・政子親子は、1200年、頼家の後見人である梶原景時に謀反の疑いをかけ、一族郎党殺害してしまいます。

 また、あるとき、頼家が、比企能員の娘を嫁に迎え入れます。この比企能員とは、頼家の側近として寵愛を受けていた人物でした。

 これでは、北条氏が幕府の中核から外れていってしまうという危機感を覚えた時政、政子親子は、まず、将軍就任から4か月目の頼家を政治の中枢から外し、当時12歳であった弟の実朝に政務を執り行わせます。

 そして、1203年、時政・政子親子は比企能員に謀反の疑いがあるとして、一族郎党を殺害します。

 更に、新しく執政を行う実朝は12歳ですので、その執政を補佐するため、時政は執権という役職につき、以降北条氏が世襲制として受け継いでいくことになりました。

 

 そして、時政・政子の陰謀は、実の孫(政子にとっての子)の頼家・実朝にも及びます。

 まずは、伊豆に幽閉していた頼家を殺害してしまうのでした。

 そして、頼家の子・公暁に父を殺したのは実朝だと吹き込んで3代将軍実朝を暗殺させた後、直ぐに公暁を暗殺し、源氏直系の血を絶やしてしまうのでした。

 また、この他にも、時政は、1201年城氏、1205年畠山重忠、1213年和田義盛と次々政敵に陰謀・謀略を行い、殺害していきました。

 本当に凄まじいですね。これら時政・政子親子の陰謀・謀略は、父・時政は基より、娘・政子がかなり主導的に動いていたものと考えられており、実際、父・時政が愛人を作って、その子を取り立てようとしたので、政子は父を出家させたというエピソードもあるくらいですから、その当時の政子が持っていた権力の大きさが分かりますね。

 北条政子が、「尼将軍」と言われていた由来が、ここにあります(ちなみに、北条政子は、源頼朝が死亡して以降、出家しています。)

 

 このように、北条時政・政子のやり方は、相手が自分の孫であれ、子供であろうがお構いなしに、時には戦を仕掛け、時には陰謀・謀略を駆使して北条家が有利なように運んでいくもので、そのやり方は、一族郎党ともに葬り去ってしまうという徹底したものでした。

 元々、北条家は、家臣も所有する土地も周りの巨大な武士団よりも多くなく、ただ源頼朝と北条政子の婚姻関係だけで幕府の主要な地位にいたものであり、それが無くなってしまうと単なる一部族となってしまうという危機感から、自分達の権力があるうちに、できるだけ将来的に自分達の危険因子を排除していこうとする徹底した危機管理を実行していったものだと言えます。

 そして、北条氏は執権という地位を世襲できるという特権を得て、約150年間の鎌倉時代に君臨していくことになるのでした。

 

★源頼朝と北条政子の夫婦関係って、幸せだったの?

 ちなみに、この時代、征夷大将軍というと、沢山の妾を持っていあっというイメージがありますが、北条政子は頼朝に対して、絶対に妾をもつことを許さなかったそうです。

   一度、頼朝が政子に内緒で妾を持った際には、その一族は基より、家屋まで取り壊したというのですから、恐ろしさがうかがえます。

 そして、最後になりますが、源頼朝の落馬による死亡というのは、何か違和感がありませんか?

 これは、頼朝が祭典に行った帰り道でのこと、頼朝が騎乗していた馬が橋の上で突然に暴れ出し、川に落ちた頼朝一人だけが水死したとになっているそうです。

 しかし、どうなんでしょう。トップの人間だけ川に落ちて水死、頼朝が泳げたかどうかは分かりませんが、海に隣接する鎌倉での出来事です、部下に水泳が堪能なものがいるのが普通でしょう。

 であれば、助けに行くのが自然ですし、一人だけ水死というのは、とっても違和感がありますね。

 ちなみに、現在ある頼朝の墓は、江戸時代になって建てられたもので、それまでは将軍様の墓が無かったというのですから、非常に違和感がありますね。

 なお、不思議なことに、鎌倉時代の公式記録書とされている吾妻鏡ですが、頼朝の死の3年前からのものが残っていないそうです。

 なんだか、頼朝も、北条時政・政子親子の陰謀・謀略に合っていたとしても、全然不思議ではないような気がしますね。

 どうでしょう。私の私見ですが、吾妻鏡には、頼朝が死亡する3年前ぐらいから、頼朝と時政の仲が悪くなっていく様子が記載されていたのか、若しくは頼朝が妾を持ってしまって妻・政子の怒りをかったという内容が記載されていたのかもしれませんね。

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