歴史上の人物

吉田茂の戦争に負けて外交に勝った歴史

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 昭和二十(一九四五)年五月、当時六十六歳だった吉田茂は、天皇に対する戦争中止の上奏に関わった容疑で、東京・代々木の陸軍刑務所の独房に収監されていました。

 アメリカとの開戦に強く反対していた吉田は、戦争が始まった後も、親英米派とみなされ、軍部から目の敵にされていたのです。

 逮捕からおよそ二か月後の五月末、吉田は釈放されますが、焦土と化した 京を目にして、「今に立ち直る。必ず日本は立ち直る」とつぶやき続けたといいます。

 今回は、吉田茂のお話について、ご案内します。

★吉田は外務大臣に抜擢される

 昭和二十(一九四五)年八月十五日、日本は連合国に降伏し、占領統治下に置かれました。

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 このとき、吉田は、日本政府とGHQのパイプ役として外務大臣として抜擢されました。

 吉田は、大正八(一九一九)年に、第一次世界大戦の戦後処理を決めるパリ講和会議に随行員として出席しており、この経験から、「どういう講和を果たすか、それがこの国の復興の鍵を握る」と先を見据えていたのでした。

 そして、GHQの強硬な改革に反発する声が高まる中、吉田は外務省の部下たちに「戦争に負けた以上、じたばたせず、受け入れるべき処は受け入れ、"良き敗者"として振る舞ってもらいたい」と諭したのでした。

 これは、吉田が、"良き敗者"としてGHQの改革に協力することにより、日本にとって有利な講和につながり、それが日本の将来のために不可欠であると考えていたのでした。

★吉田は周囲の反対の中、新憲法を受け入れる

 昭和二十一(一九四六)年二月、GHQが独白に作成した新憲法の草案を日本側に提示しました。

 その中には、次のような、それまでにない文言が並んでいました。

 ・天皇は象徴で主権は国民にある

 ・戦争を放棄し、陸・海・空軍その他の戦力を保持しない

 この内容に、閣議では「とうてい受け入れられない」という声が続出します。

 しかし吉田は、「連合国に対し、再軍備の放棄、徹底的民主化の完成という安心感を与える必要がある」とし、憲法改正が講和にとって有利に働くと判断しました。

 そして吉田は、五月には総理大臣兼外務大臣に就任。

 日本国憲法は国会を通過し、公布されます。

 その結果、昭和二十二年(一九四七)年三月、マッカーサーは記者会見で、「新憲法によって占領の目的は達せられた」と発表します。

 それは、アメリカが対日講和七原則を発表する三年八か月前のことでした。

★戦後に広がる東西冷戦

 一方、この時期に、アメリカとソ連の東西冷戦が始まりました。

 アメリ力のトルーマン大統領は共産主義との対決を宣言します。

 また、中国では共産党と国民党の間で内戦が激化していきます。

 さらに、朝鮮半島では、朝鮮戦争の結果、北緯三十八度線で南北に国が分断されてしまい、一触即発の情勢となってしまいました。

 このような世界情勢の中、アメリ力は連合国に対して、対日講和の会議開催を呼びかけました。

 これは、アメリカがアジアでの主導権を握ろうすることを意図していました。

 しかし、アメリカの提案から十一日後、ソ連が「アメリ力の提案は事前に相談もなく、一方的であり同意できない」と異議を唱えました。

 このソ連の異議により、講和会議は延期を余儀なくされます。 

 このため、日本国民は落胆しましたが、吉田はこの状況に意外な反応を示します。

 「講和の遅れたことは日本にとって必ずしも不利ではなかった。もし平和条約が終戦後間もなくできていたとしたら、連合国は過酷な条件を日本に押しつけてきただろう」

 ちなみに、日本と同じ敗戦国のイタリアは、すでに連合国と講和条約を結んでいました。

 しかし、領土の一部を失った上に、総額十三億ドルもの多額の賠償金を課せられており、それを踏まえての考えでした。

★単独講和を結ぶ本心が言えない吉田

 吉田の考え方は、日本がイタリアのようにならないよう、早く講和することよりも、少しでも寛大な条件を引き出すことを優先することでした。

 そして、その考え方は、東西冷戦という状況においては、「米ソ対立という局面の中で、話の持っていきようによっては、その存在価値が高められるに違いない。価値が最も高まった時に講和を行えば、敗戦国にとって不可能にみえる好条件も勝ち取れるのではないか」というものでした。

 この当時、吉田は決意の言葉を述べています。

 「戦争に負けて外交に勝った歴史がある」

 そして吉田の思惑通り、対日調和をめぐる状況が好転し始めました。

 昭和二十四(一九四九)年五月、二年前とは逆に、ソ連が協議開始を連合国に提案したのでした。

 当然、アメリカはこれに対抗します。

 そして、アメリ力は日本との講和条約の具体案の作成に入っていったのでした。

 このソ連の対抗処置として作成さらたアメリ力の条約案は、吉田の求める条件に近いものでした。

 ところが、"待つ戦術"をとる吉田に、決断を急がせる事態が生じます。

 それは、国内の意見が、「単独講和」と「全面講和」とに二分されたのでした。

 「単独講和論」は、西側諸国との講和を優先すべきという、現実性を重視した主張でした。

 一方、「全面講和論」は、東西両陣営と同時に講和を結ぶべきという主張です。

 全面講和論賛成者は、「単独講和は我々を相対立する二つの陣営の一方に投じ、他方との間に依然たる戦争状態を残す」という理由で単独講和を反対するのでした。

 この結果、この年に国民に行われたアンケートでは、「全面講和論」支持がおよそ六割を占めていました。

 国会で、吉田は総理としての方針を問いただされます。

 しかし、より賀大な調和を得るためには、今はまだ日本の立場を示すタイミングではないと読んでいた彼は「どちらがいいかという問題は国際関係によって決まる訳であって、我々に採択の自由はないのであります」と曖昧な答弁を繰り返しました。

 また、単独講和には、もう一つの理由がありました。

 それは、独立後の安全保障のあり方です。

 外務省では単独講和と全面講和、双方の安全保障上の課題について研究を重ねていました。

 その結果、単独講和の場合は、ソ連など共産陣営と激しく敵対することになります。

 しかし、一方で、全面講和を選び中立を主張したとしても、日本が他国から絶対に侵略を受けないという保証はないのです。

 であれば、吉田の考えは、少しでも有利な条件での講和を勝ち取りつつ、憲法で非武装を掲げている日本の将来に向かっての安全保障をいかに確保するかという、二つの困難な目標を追っていたのでした。

★西側陣営へ舵を切った吉田の決断

 昭和二十五年(一九五〇)年二月十四日、ソ連が中華人民共和国と同盟を締結します。

 その同盟条約においては、日本は名指しで"仮想敵国"とされていました。

 この状況に吉田は、「全面講和」などとても不可能と判断します。

 そして、西側との「単独講和」へと一気に舵を切っていきました。

 ところが、今度は、逆にアメリカの国防総省が対日講和の推進に反対し始めました。

 その理由は、日本を共産主義の防波堤と位置づけ、アメリカ軍の日本駐留を永続化したいと考え始めたのでした。

 この状況に吉田は喜びます。それは日本がアメリ力にとって「反共の砦」として不可欠の存在になったということだったのです。

 そして、吉田は行動を起こしました。四月二十二日、彼は池田勇人大蔵大臣を官邸に呼び出します。

 その理由は、池田が三日後に経済情勢の意見交換のための渡米を控えていたからでした。

 そして、吉田は、あるメッセージを極秘に伝えるうように池田に命じたのでした。

★吉田茂の意図した講和条件を引き出す

 五月三日、アメリ力に到着した池田は、国防総省の顧問であるドッジと面会し、そのメッセージを伝えました。

 「講和条約を結んだ後も、アメリカは軍を日本に駐留させる必要があるだろうが、もしアメリカからそうした希望が申し出にくいなら、日本政府が提案してもよい」

 吉田は、国防総省が望む米軍の日本駐留を日本側から申し出ることで、事態を打開し、同時にアメリカから有利な条件を引き出そうとしたのでした。

 この池田・ドッジの極秘会談から六か月後の十一月二十四日、アメリカは初めて公式に講和の基本方針を発表しました。

 そこには、次のように明記されていました。

 ・「請求権、放棄する」 つまり、賠償はなし。

 ・「安全保障、日米の共同責任」

 これは、日本が基地を提供し、米軍が日本の安全を守ると読み取れる内容でした。

 つまり、吉田が真に求めていた「寛大な条件での講和」と「日米の安全保障」の確保が、アメリカ側から公式に示されたのでした。

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★吉田茂が担った戦後の役割

 吉田は、敗戦後の日本で火中の栗を拾う役割を担いました。

 彼は、戦争から日本を守ることができなかった無念を常に抱え続けていたと思われます。

 昭和八(一九三三)年、日本は満州事変をきっかけに国際連盟脱退の動きを見せます。

 当時、外務官僚だった吉田は国際社会から孤立すると異を唱えましたが、結局止められませんでした。

 その後、吉田は、イギリス大使時代にドイツとの同盟に反対します。

 吉田のこれらの行動に対して、軍部や右翼に命をつけ狙われます。

 しかし、吉田は、開戦直前まで戦争回避に奔走したのでした。

 けれども、その努力もむなしく、日本は太平洋戦争へと突き進みました。

 戦時中、吉田は書生に扮した陸軍の諜報員に監視されていました。

 ある日、自宅近くの海岸で吉田がつぶやいていた次のような言葉が諜報員の記録に残っています。

 「この海の向こうで、今も多くの日本人の血が流れている。若い命が失ねれている」

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