歴史上の人物

徳川家康が浄土真宗を西本願寺派と東本願寺派とに分かれさせる

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 織田信長が天下統一を成し遂げていく中、最も強敵と言われたのが、一向一揆でした。

 彼らは、石山(大坂)の本願寺の手足として、次から次へと湧いて出てくるような攻撃に、信長はかなりの兵力を使わざるを得ませんでした。

 しかし、本願寺は、最終的には信長に制圧され、秀吉の時代になっても反抗の意は示しませんでした。

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一向一揆と織田信長との戦い

 江戸時代となると、本願寺の計り知れないパワーが子孫に害を及ぼしかねないと思料した徳川家康は、本願寺の潜在的な力を封じ込めにかかります。

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 今回は、家康が対本願寺対策として行った政策についてご案内します。

★徳川家康と一向一揆衆との戦い

 家康は、本願寺とその手足となる一向一揆を過度に恐れていました。

 その理由は、家康は、若かりし頃、一向一揆衆との戦いの中で、殺されかけた経験を持つからでした。

 桶狭間の戦いで、今川義元が戦死したあと、家康(当時は松平元康)は、人質生活から脱して、ようやく三河に戻ることができました。

 岡崎城に入城した家康は、「三河一国の全面制庄」を目指して領土統治を始めます。

 ところが、その前に最初に立ちはだかったのが、三河の一向宗(浄土真宗)の寺院と、その門徒である一向一揆衆でした。

 家康の領地支配で、一向宗寺院の不輸不入(権力の立ち人りと年貢課税を拒むこと)の既得権を認めなかったことが引き金になりました。 

 そして、この争いは、家康と三河の一向一揆衆との全面戦争に発展してしまいます。

 この戦いは、家康にとって、様々な観点から生涯で最悪の戦いと言えるものでした。

 その理由は、松平家中には一向宗の門徒が多く、それらの多くが主君である家康を捨て、一向一揆に加わったからでした。

 その兵力は、一説によると、松平家の兵力の半分が一向一揆側に立ったというのですから家康もたまったものではありません。

 ちなみに、その中には、のちに謀臣として働くことになる本多正信ですら、一向一揆の参謀役を務めたのですから、家康の失望感は相当なものだったと思われます。

 そして、家康は、一向一揆衆との戦いの中で追い詰められ、命を落としそうになる場面もありました。

 その時は、一向一揆の一翼を担っていた旧臣が、「いくらなんでも殿の首を取るわけにはいかぬ」と戦場で一向一揆を裏切り、家康を救ったから一命を取りとめたのでした。

 家康は、最終的にこの戦いにはなんとか勝利することができましたが、そのときの失望感、恐怖感、危機感は、後年にまで家康の脳裏に深く焼き付きました。

 そして、その後、盟主である織田信長がいかに一向一揆に苦しめられたか、家康は嫌というほどに見てきたのでした。

★家康の策謀は本願寺の勢力を二つに分けること

 その後、天正八(一五八〇)年になって、信長は、ようやく本願寺を降伏させます。

 そして、信長の生存中は紀州に逼塞していた本願寺は、豊臣秀吉の許しを得て京都に移りました。

 その頃には、もちろん、かつての激烈な宗教戦争を起こすだけのパワーは薄れていました。

 その後、そのパワーが薄れたのは家康が江戸幕府を開いてからも同じではありました。

 しかし、家康は、若かりし頃の経験で、本願寺の持つ統率力と一向一揆衆の潜在的なパワーを嫌というほどに知っています。

 そして、そのパワーは、時を経て、いつまた、江戸幕府に牙をむいて襲いかかってくるか分かりません。

 そこで、家康は、本願寺と一向一撲衆のパワーを抜本的に取り去る策謀を考案して実行したのでした。

 その策謀とは、本願寺の勢力を二つに割けることでした。

★徳川家康の読み通りパワーを失った本願寺

 信長と戦った時代の本願寺門跡は、顕如でした。

 そして、新門(後継者)は教如です。

 前述のように、顕如は天正八年に信長に敗れ、紀州に逼塞していました。

 しかし、新門である教如は、なんと降伏を認めず、父である顕如に背き、石山本願寺に籠もり続け、信長に抵抗し続けたのでした。

 けれども、さすがに単独で織田信長と戦い続けることは難しく、三ヵ月後には教如も石山を退去し、顕如の跡を継いで新しい門跡に就任しました。

 しかしながら、顕如は教如の反骨精神を危ぶみ、死ぬ直前に、教如を廃し、その弟・准如を門跡に立てるという遺言を残したとされています。

 一方で、実際に、このような遺言があったか否かは定かではありません。

 この遺言は、准如の母である顕如の後妻が遺言を聞いたということになっているだけです。

 前妻の子である教如にとっては義理の母に当たります。

 実は、この遺言の有無は今も争いの種になっています。教如の子孫はなかったと主張し、准如の末はあったと言い張っているのです。

 しかしながら、顕如の最期を看取った後妻の発言力は大きく、結局、教如は門跡の座を弟・准如に譲らざるを得なくなりました。

 このため、教如は宙に浮いた存在になっていたのでした。

 その宙に浮いた存在となっていた教如に目を付けたのが家康でした。

 家康は、教如をそそのかし、関ケ原合戦の二年後、別の本願寺をつくらせたのでした。

 そして、以前からの存続している准如の本願寺を西本願寺といい、教如が新しくつくった本願寺を東本願寺ということになったのでした。

 この結果、現在でも本願寺は東西二つに割れたままとなっています。

 そして、割れたのは本山である本願寺だけではなく、各地の一向宗寺院も東と西に割れ、門徒も割れ、お互いが自分たちの正統性を主張して争いになったのでした。

 これにより、一向一撲衆の団結力は、一気に失われます。

 そして、家康に代表される武家権力に刃向かう宗教的パワーも失ってしまったのでした。

★その後の東西に分かれた本願寺

 このような経緯で、東西に割れた本願寺なので、幕末では、東本願寺は佐幕の立場に立ちました。

 また、豊臣家に保護された記憶を残す西本願寺には反幕の色彩が濃く、薩長の側に立ちました。

 幕末に、最初は壬生の郷士屋敷に間借りしていた新撰組が西本願寺に屯所を移し、殺生厳禁の境内に処刑場を設けるなど、散々にいやがらせをしたのはそのためでした。

  また、大政奉還のあとは、その逆になりました。

 佐幕の立場だった東本願寺は新政府ににらまれ、宗派を挙げて北海道開拓に従事することを強制されました。

 このため、東本願寺に属する僧侶や門徒は大挙して北海道に渡り、自費で北海道各地に寺院を建て、そこを拠点に道路の建設などに血の汗を流しました。

 今日、北海道は東本願寺(真宗大谷派)の寺院が多いことで知られているが、これは明治初期に東本願寺が北海道開拓に尽力したことの結果にほかならないのです。

 その意味では、家康が立案・実施した本願寺対策は、今の時代にも影響を及ぼしているのですから凄いアイデアだったと言えます。

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