歴史上の人物

一向一揆と織田信長との戦い

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 信長が天下統一の過程で最も苦心したもの。

 それは、一向一揆との戦いであったと言われています。

 信長は、一向一揆を抑えるのに、約10年歳月を要しています。

 今回は、信長と大阪本願寺との戦いの中で起った、織田水軍と村上水軍との戦いを御案内します。

 織田水軍は、一旦は村上水軍の猛攻に屈して、壊滅します。

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 しかし、1年半の歳月を経た後、織田水軍大将九鬼嘉隆が、当時の技術では不可能と思われた鉄製の船で攻勢し、村上水軍を撃破するという内容です。

 海を抑えなければ天下取りが危うくなる。 このための信長の逆転の発想です。

★戦国最強をうたわれた村上水軍

 村上水軍とは、現在の中国・四国地方で活動をしていた水軍です。

 その強さは、戦国最強と言われており、規律のとれた集団戦法を得意としていました

 また、村上水軍の秘密兵器、ホウロクと呼ばれる手榴弾や、火矢による攻撃を行うとともに、一瞬の隙をついて敵船を乗っ取るなど、その強さは無敵でした。

★一向一揆と信長軍との戦いの経緯

 天下統一を目指す信長、足利義昭を京都に招き入れたことを足掛かりに、次なる目的を大坂に定めました。

 大坂は、瀬戸内海に面しており、全国を結ぶ水運の拠点でもありました。

 このため、今後、中国・四国・九州と西国への進出のためには、何としても押さえておきたい土地でした。

 しかし、大坂には、大坂本願寺という強敵がいました。

 当時の大坂本願寺は、政治的にも全国に信者を持つ、一大勢力でした。

 その一方で、武装した僧侶による一大軍事力を誇っていました。

 さらに、大阪湾の利権を握る本願寺には、莫大な財力も持ち合わせていました

 このため、信長にとって、大坂を支配しようとする上で、大阪本願寺は最大の難敵でした。

 信長は、軍事的圧力を持って、大坂からの退去するよう命令しますが、大坂本願寺は断固拒否し、全国の信者に打倒信長を訴えかけました。

 そして、信者たちは一斉に立ち上がり、「一向一揆」として各地で信長の軍勢襲いかかりました。

★信長軍による大坂本願寺への総攻撃

 天正4年4月信長は大阪本願寺への総攻撃を開始します。

 そして、本願寺を数万の軍勢で包囲し、兵糧攻めに出ました。

 しかし、兵糧攻めの効果が思うようにあがりません。その理由は、海運を握っていた大坂本願寺は海路より物資を運ばせていたことによるものでした。

 信長は、大坂湾を封鎖するため、和泉や摂津の水軍を新たに編成し、織田水軍を形成、大坂湾の封鎖に当たらせました。

 この織田水軍に対して、戦国最強と謳われた村上水軍が、800艙の大船団で、大坂湾に乗り込んできたのでした。

★全国に広がる信長包囲網

 村上水軍は、西国の大大名毛利輝元が送り出したものでした。

 毛利輝元は、勢力拡大させつつある信長に危機感を抱き、大坂本願寺をはじめとする反信長勢力と結束を固めていました。

 そして、その援助軍として、瀬戸内海を支配する村上水軍を送り出したというものでした。

 村上水軍は、戦国最強の水軍と謳われていました。

 自軍の指揮官が乗った船を中心に、一糸乱れね集団戦法を行い、機動力のある船団で敵船を取り囲み、集中攻撃をかけ、素早く敵船を乗っ取るといった戦法で、無敵を誇っていました。

★織田水軍の壊滅

 織田水軍は、村上水軍の秘密兵器である「ホウロク」と呼ばれる手榴弾や、火矢による攻撃を受けます。

 つまり、船を火攻めにされ、さすすべもなく壊滅させられてしまいました。

 この結果、信長の海上封鎖は失敗、村上水軍は勝利を収め大阪本願寺に兵糧を入れ、大阪本願寺勢力は再び息を吹き返します

 さらに、信長水軍で敗北したことは一斉に全国に広がり、上杉・武田などの反信長勢力がこの時とばかりに一斉に信長への攻撃を始めました。

★九鬼嘉隆への鉄製の船を作れという無茶苦茶な命令

 一方信長は、この敗戦を受け、伊勢にいた織田水軍大将・九鬼嘉隆を急ぎ呼び寄せました。

 九鬼嘉隆は村上水軍との合戦のときは、別の戦いに参戦していたため、信長は、次は九鬼嘉隆に陣頭指揮を取らせるつもりでした。

 そして、まず信長が九鬼嘉隆に下した命令は、「鉄でできた船を作れ。」というものでした。

 九鬼嘉隆は、初めは信長の命令の意味が分からず、戸惑いました。

 しかし、命令を受けているうちに、「(敵の秘密兵器である)ホウロクにも燃えない鉄の船を作れ。」ということで理解できました。

 そして、現在では、当たり前の鉄の船ですが、当時の技術では、水に沈んでしまう鉄を使って、船ができるとは思いませんでした。

 けれども1年半後、試行錯誤の結果、木材に鉄を貼り付けるという方法で、世界初の鉄製の船が出来上がりました。

★鉄船が大坂湾に現れる

 天正6年7月17日、堺の海上に突然巨大な船が姿を現しました。

 鉄で覆われたその船体は、全長32メートル、幅10.8メートルと巨大なもので、人々は驚きました。

 それは、当時日本は基より、世界でも類を見ない巨大な鉄船でした。

 巨大鉄船は合計6隻で、すぐに本願寺への補給路を断つべく、大阪湾木津川河口の封鎖にに入りました。

 しかし、この時、鉄船には極めて大きな問題がありました。

 その大きさゆえ、速度が余りにも遅かったのです。動きの遅い巨大鉄船は村上水軍と本当に戦えるのか?全員が疑問を持っていました。

★村上水軍とのリベンジマッチ

 天正6年11月6日、村上水軍が600隻で、大阪湾に現れました

 これに対する織田水軍は、大将・九鬼嘉隆率いる巨大鉄船わずか6隻です。

 戦いは、初めのうちは、鉄船は動きが遅く、多数の村上水軍の船を前に立ち往生の感がありました。

 村上水軍は、多くの船が機動力を活かして攪乱を起こさせて、鉄船は対応できていませんでした。

 鉄船も、村上水軍の船を目掛けて鉄砲で攻撃をしますが、思うように効果がありません。

 動きの遅い6隻の鉄船は、瞬く間に、村上水軍に取り囲まれてしまいました。

 やがて、村上水軍は前回同様、ホウロク、火矢による火攻めを開始します。

 しかし鉄船は、村上水軍のホウロク、火矢をことごとく跳ね返しました。

 村上水軍は、次に、ホウロク、火矢が効かないと分かったので、次々と鉄船を取り囲み、鉄船に乗り込もうとしました。

 ここで、大将・九鬼嘉隆が号令をかけます。「大砲発射」

 すると、鉄船から扉のようなものが開けられ、登場した西洋式大砲から一斉に砲弾が発射されました。

 鉄船は、1隻に3つの西洋式の大砲が積まれており、合計18砲が、一斉に村上水軍の船を目掛けて火を噴きます。

 この様子について、信長の生涯を記録した「信長公記」には、「敵船を間近く寄せ付け、大将軍の船とおぼしきを大鉄砲以って打ち崩し候」とあります。

 至近距離からの巨大鉄船の砲撃に、村上水軍の指揮官を乗せた船は次々と撃沈されていき、指揮系統を失った船は逃走していきました。

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★最後に

 この巨大鉄船は、これ以降の戦いで、使用されたという記録は出てきません。

 おそらく、この村上水軍に対して、使ったのが、最初で最後かと思われます。

 どのようなピンチを招こうとも、常に奇想天外な発想をして、対応していく信長はやっぱり只者ではないと思われますね。

 ちなみに、この村上水軍との戦いから2年後、信長は宿敵の本願寺を降伏させるのでした。

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