歴史上の人物

足利義満は天皇の地位を狙おうとしていた?

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 鎌倉時代以降、何人もの武士の最高権力者が「征夷大将軍」となりました。

 しかし、その当時、京には天皇が権威の象徴としており、天皇の任命がなければ征夷大将軍にはなれませんでした。

 けれども、この征夷大将軍の中には、天皇をある意味ないがしろにし、自らが天皇の地位を狙おうとしていた人物がいます。

 それは、室町幕府の三代将軍・足利義満でした。

 今回は、この足利義満の天皇家への野心を御紹介していきます。

★室町幕府三代将軍・足利義満のリーダーシップ

 義満は、室町幕府の将軍の中で、最も有能な人物であったと言われています。

 まず、地方で大きな勢力を誇っていた守護大名を武力で弾圧して、幕府の権力を高めます。

 そして、南朝と北朝に分かれていた朝廷は、義満の呼び掛けで再び統一しました。

 また、大国・明との貿易を開始し、莫大な利益を上げるようになりました。

 さらに、京都に鹿苑寺(金閣)を築くなど、文化も面でも実績を残しています。

 こうして見ると、義満のリーダーシップがいかに優れていたのかが分かりますが、一方で、相当な野心家でもあったようです。

 古代から日本には、様々な権力者が出てきましたが、どんな権力者も朝廷の権威を借りて天下を治めようとしました。

しかし義満は、どうやら天皇の位を自分のものにしようとしていたようでした。

★足利義満が皇位を狙っていたとする根拠

 義満が皇位を狙っていたとする「根拠」はいくつかあります。

  まず、一つ目は、本来は天皇が取り仕切るべき朝議(朝廷での評議) への介入でした。

 義満は応永四年(1397年)、京都北山の西園寺家の山荘を譲り受け、後水尾上皇の仙洞御所を真似て、京都北山に北山第を造営しました。

 北山第には金閣をはじめとする豪華絢燗な建物を配し、義満は死ぬまでここで政務を執りました。

 そして、その間、義満は後円融天皇を無視して朝議に介入し、天皇の官位任命権を奪ったり、皇位継承にも干渉するようになりました。

 実は義満の母・紀良子は順徳天皇の子孫で、義満には皇族の血が流れていたのでした。

 このため、当時の後円融天皇とは従兄弟の関係で同年代でもあつたから、天皇家へのコンプレックスは無かったものと思われます。

 さらに義満は、後円融天皇が後小松天皇に譲位して上皇となると、改元に当たり「嘉慶」という元号を選んで上皇に認めさせたり、上皇が行なう拝賀奏慶という儀礼も執り行なつている。これは上皇をも配下においた振る舞いだとも言えました。

 

 二つ目の根拠としては、明の皇帝と交わした国書が挙げられます。

 応水8年(1401年)、義満は、元冠以来国、国交が途絶えていた中国との国交を回復させるため、明に使節を送りました。

 その際に、建文帝に宛てた国書の名義は、「日本准三后道義」となっていました。

 「准三后」とは、太皇太后、皇太后、皇后に次ぐ位です。つまり、義満は自らを皇族と肩を並べているかのように称していたのでした。

 義満がこの国書を建文帝に送ったのは、義満が天皇になったとき、建文帝にその地位を認めさせるためと見られています。

 結果的に、その計略は成功しました。翌年、建文帝からは「日本国王源道義」と書かれた返書が届きました。

  「源道義」とは「日本国王であるところの足利義満」を意味します。

 つまり、明の皇帝は義満を「日本国王」と認めたのでした。

 

 そして、三つ目の根拠は、次男を天皇にしようとしたことでした。

 義満には義嗣という息子がいたが、義嗣を天皇にして、そのうえで兄の義持に将軍職を継がせれば、兄弟で権力を独占できると考えたようでした。

 実際、義嗣を皇位継承者にするために宮中に赴かせ、応永十五年(1408年)に天皇の前で元服式を行なったのでした。

★ところが義満の急死で全てが白紙に

 こうして、義満の計略は順調に進んでいき、残るは義嗣への天皇の譲位だけとなりました。

 ところが、元服式のわずか三日後、義満は突然の病に倒れ、亡くなってしまいます。

 義満は、「治天の君」の位を目前にしながら、亡くなってしまい、この突然の死に暗殺されたのではと疑惑も浮上したのでした。

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