合戦のお話

桂内閣が53日で総辞職となった「大正政変」に係る陰謀

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 大正政変とは、大正2年(1913年)2月11日、陸軍出身で長州閥の桂太郎内閣(第三次)が、民衆によって倒された事件です。

 この日は、数万人もの民衆が国会議事堂前に集結し、桂に怒号を浴びせました。

 このため、衆議院議長の大岡育造が「このままでは内乱に発展しかねなぃ」と桂に対して暗に辞職を促したのです。

  このため、桂は内閣総辞職を決意します。

 それは、わずか53日という前代未聞の短命政権でした。

 この大正政変は高まる民衆の力を象徴する事件として知られていますが、一方で、この事件の裏には、桂らと対立していた西園寺公望ら立憲政友会が民衆を利用しただけだという意見もあります。

 今回は、この大正政変について、御案内します。

★大正政変の発端となった西園寺内閣の総辞職

 そもそも大正政変は、大正元年(1912年)に西園寺公望を総理大臣とする内閣が総辞職に追い込まれたことに発端すると言われています。

 この当時の日本経済の状況は、日露戦争による不況を引きずっていたため、輸入超過が継続していた上に、日露戦争の費用を外債で賄ったため債務が膨らみ、その返済に追われていたのでした。

 この逆風の経済状況と財政状況を好転させるため、西園寺公望は首相として、あらゆる予算を大幅に縮小・削減する超緊縮財政の方針を決めたのですが、陸海軍はこれに猛反対します。

 特に、陸軍の反対は凄まじく、ロシアや中国に備えるために、朝鮮半島での二個師団の増設を求めましたが、西園寺はこの増設を認めません。

 このため、上原勇作陸軍大臣は、大正天皇のもとに赴いて辞表を提出しました。

 これに対して、西園寺は陸軍大臣の後任を出すように要請します。しかし陸軍はこれを拒否しました。

 この当時、陸海軍大臣は、現役の大将・中将でなければならないという「軍部大臣現役武官制」が取られていました。

 このため、内閣は、陸海軍の協力がなければ内閣を維持することはできなくなり、結局、西国寺内閣は大正元(1922年)12二月に総辞職することになってしまったのでした。

★これに対する世論の動き

 しかし、内閣は総辞職に追い込まれますが、多くの民衆は西国寺と政友会を支持していました。

 その理由は、明治維新を主導した薩摩藩、長州藩などが形成した派閥による政治支配に嫌気がさしていたというのが理由でした。つまり民衆は、彼ら閥族の政治支配に嫌気がさしていたのでした。

 そして、西国寺の後任として首相に返り咲いた桂太郎は、陸軍出身で長州閥の人間です。

 さらに、桂は内大臣兼侍従長として宮中にあり、宮中と政治の別を乱す存在とも見られていたため、民衆は立憲制を守ろうとする西国寺と政友会を支持したのでした。

★そして西国寺がとった行動は

 西国寺は、自らが総理大臣の時に実施しようとしていた緊縮財政政策が民衆に圧倒的に支持されていることを実感していました。

 そこで西国寺と政友会は下野してまもなく、その勢力伸長を狙い、民衆を煽動することを始めます。

 まず、政友会本部は陸軍の身勝手なストライキの経緯を全国の支部に説明しました。 

 そして、師団増設の反対、閥族消滅を唱えて民衆を扇動しました。

 すると民衆は、「閥族打破」「憲政擁護」を叫びはじめます。

 また、全国各地で集会が開かれるようになりました。それをマスコミが大々的に報道したため、運動はますます盛り上がっていきました。

 この運動は、その後に凄まじい盛り上がりをみせ、前述のとおり、桂内閣は倒れ、西国寺と政友会の戦略は成功に終わりました。

★扇動された民衆は裏切られ、再び閥族が政権を握る

 ところが、その後の内閣総理大臣は、海軍大将で薩摩閥の山本権兵衛でした。

 確かに、陸軍出身で長州閥の桂太郎とは系統こそ違っていたものの、閥族であることは同じでした。

 こうなったのは、政友会が次期内閣に参入することと引き換えに、閥族と妥協を図ったからでした。

 つまり、政友会は首相と陸・海軍大臣、外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員から選ぶということを条件に、閥族と提携することを選んだのでした。

 西園寺がこのような決着を想定して、民衆を扇動したのかは不明であるが、結果からみると民衆は明らかに政友会に利用されただけになっており、裏切られた形になっていることは間違いにないことでした。

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