歴史上の人物

土方歳三の最期は自分の信念に殉じた

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 「土方歳三」は、新撰組の副長として、京にいた時は、鬼の土方として恐れられていた人物です。

 京の街の大路小路は、新撰組の姿を見ると、人は恐怖感にさいなまれたと言います。

 新撰組が、そして土方が、最も得意とする日々でした。

 しかし、彼の人生の中で、最も充実していたのは、新撰組の解散以降、新政府軍と戦っているときであったような気がして仕方ありません。

 やがて、土方は、最後に函館の五稜郭で、戦い中、銃弾で倒れ死亡します。

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 その遺体は、行方不明とされており、一説には土方が「逃げる者は斬る。」と太刀を抜き、味方の兵を鼓舞し続けたため、死を恐れた味方から撃たれ、死体を埋め隠されたという説もあります。

 しかし、土方の生き方は、新しいものに対応するため自分を変えていき、如何に人生を充実されるかという点で、非常に学ぶものがあると思っています。

 我々現代人も、与えられた環境で、資金で、自己の才能で、そして運命で、自分の人生をどのように充実させていくのかというのは非常に大切なことですよね。

 土方を主人公に描いた司馬遼太郎の作品「燃えよ剣」には、彼の言葉として、次のような言葉が記載されています。

 

 「時代の流れなど問題ではない。自分の信じた美しさに殉ずるべきである。」

 

 人生は、気運を得て上昇気流に乗っているときもあれば、運がなく何をやってもうまく行かない時もあります。

 土方は、明治維新という逆境の中で、それでも自分の戦いの美しさを求めて戦い抜きます。

 そして、その美しい戦いの中で、自分の人生を充実させていくという生き様は、共感しますね。

 それでは、今回は、土方の鳥羽「伏見の戦いで敗れた後の内容をご案内します。

 

★新撰組と鳥羽伏見の戦い

 江戸時代末期の京都で、江戸幕府の反対する志士を探し、そして斬る、これが新撰組の仕事でした。

 池田屋事件などの大きな手柄を上げ、新撰組局長・近藤勇、副長・土方歳三の最も得意とする日々でした。

 しかし、朝廷の王政復興の大号令により、江戸幕府の廃止は決定されます。

 そして、朝廷は、徳川家に領地の返納を命じました。

 これに対して、旧幕府軍は反発します。そして、鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍と薩摩・長州との新政府軍が衝突することになります。

 

 この戦いにおいて、新選組隊士は、敵兵に対して、剣をかざして切り込みに入りますが、敵の銃弾の前に倒れることとなります。

 この戦いの後、土方は、これからの戦いは、銃や大砲でなければ駄目だ、自分達は剣をぬき、槍をとったが、ひとつも役に立たなかった、ということに気付いたのでした。

 敗れた旧幕府軍は、新選組は江戸に脱出しました。

 

★土方歳三は戦うために自分を変えていった

 江戸に戻った後の土方は、戦うために自分を変えていきました。

 まず、髷を落とし、羽織袴から洋服を着るようになり、銃も手にしました。

 部下にも、銃などの近代兵器を与え、次の戦いに備えました。

 

 そして、旧幕府軍は、土方と近藤に対して、200の兵士を率いて、甲府城に入り、て新政府軍と戦うよう指示を受けます。

 

 しかし、甲府城を目の前にして、甲府城は新政府軍に占領されてしまっていました。

 戦いにおいて、城内と城外とでは大きな違いがあります。

 ましてや、200名という小部隊では、城外での戦いでは、極めて不利な立場となります。

 このため、旧幕府軍の兵士たちは戦わずして次々と逃亡し、およそ半数に減ってしまいました。

 また、残った兵士たちも、最新式の銃に不慣れなものばかり、大敗を喫してしまうのでした。

 この戦いで、土方は、最新式の軍隊と兵器を揃えても、兵士の士気と能力が低くては勝てないことを悟ったのでした。

★盟友近藤勇との別れ

 甲府城での敗戦の後、土方と近藤は流山に移動しましたが、ここでも圧倒的な兵力の差に新政府軍に包囲されてしまいます。

 ここで、もう戦うのをやめようと勝ち目がないという近藤に対して、まだ戦い続けるべきだという土方。

 結局、両者の意見はここで一致せず、近藤は偽名を使って新政府軍に投降しました。

 しかしながら、近藤は正体を見破られ、捕らわれの身となって処刑されてしまいました。

 

★土方歳三の美学

 その後、江戸城が新政府軍の明け渡されると、多くの藩は、朝廷の支配下に入るようになっていきました。

 

 しかし、このときに及んでも、土方は、「有利か不利かは問題ではない、薩摩と長州が幕府にしたことは、弟が兄を討ち、家臣が主君を征するようなものだ、いやしくも武士たるものは、薩摩・長州の味方をするべきではない。」(仙台戊辰史より)と戦い続けることを決意します。

 

 そして、現在の千葉県市川市にある鴻台で、土方は江戸から脱走してきた旧幕府軍と合流し、旧幕府軍として参謀に就任します。

 これで、近代兵器を装備したおよそ2000人を越す兵力を率いることになりました。

 

 この兵力を率いて、旧幕府軍は宇都宮城で新政府軍を攻撃します。

 しかし、旧幕府軍の勝利が 確実と思われた時、乱戦に怯えた兵士の一人が逃げ出そうとしました。

 土方はその兵士を見るや一刀両断に切り捨てます。

 そして、叫んだといます。「逃げる者は誰でもこうだ。」(桑名藩戦記)

 

 土方の、この行動をきっかけに、旧幕府軍は更に攻撃をし続け、宇都宮城を陥落させました。

 

★土方歳三は戦いを求めて東北へ

 この後、旧幕府軍は東北へ向かいました。

 旧幕府軍は、東北地方にある新政府軍に反発して戦う諸藩との同盟に合流するためでした

 しかし、時の経過とともに、次第に同盟の結束は弱くなっていきます。

 新政府軍に従う藩が増えていきました。

 

 そのなか、新政府軍に反発する諸藩が仙台城に集まり、軍議が開かれ、土方も参加しました。

 この軍議で、土方は、新撰組副長と宇都宮城の戦いの実績から、諸藩の軍事総督就任を要請されます。

 

 これに対して土方は、「軍を指揮するには、軍令を厳しくせねばなりません。背く者あれば、いかに大藩の重役といえども、 この歳三が斬ってしまわねばなりません。私に生殺与奪の権利をいただけるのであれば、お受けしますがいかがでしょうか」と申し出ました。

 

 この土方の申し出に、東北の諸藩の代表者たちは一斉に言葉を濁し、土方は去っていったといいます。

★榎本武揚と合流し、更に北へ

 その後、仙台湾には、江戸を脱走した旧幕府の艦隊が現れました。

 艦隊を率いていたのは、かつての幕府の海軍副総裁・榎本武揚です。

 艦隊の行き先は蝦夷。現在の北海道函館市です。

 榎本は、蝦夷を幕府が消滅して職を失った者たちの開拓地にするつもりでした。

 そして、土方も、その艦隊に身を投じました。

 

 明治元年10月、旧幕府軍は、函館の地に築かれていた西洋式の城・五稜郭に、2800人の軍勢で本拠地を構えました。

 そして、明治元年12月15日、榎本は明治政府とは別に、函館政府を樹立します。そして、自らが総裁となりました。

 この政府の閣僚たちは、かつての旧幕府の陸海軍の重役たちばかりでした。

 ここで、土方は、陸軍奉行並と言う役職に就任します。

 その役割は、陸軍部隊を4つの陸軍部隊を統括する責任者となります。

 一方、この頃、土方は新撰組の頃では考えられなかったことですが、兵士たちの間で人気がありました。

 

 「あれが、新撰組の鬼土方か」

 

 兵士たちの間では、自分達が置かれている境遇に、カリスマ的な価値を土方に求めたという面もあったと思われますが、この頃から兵士に対するやさしさ、思いやりが出てきたとも言われています。

 土方は、懲罰ばかりでは、人は動かないということを、幾多の戦いの中で学んでいったのでしょう。

 しかし、戦いに美学を求めているという、本質は何も変わりません。

 そして、土方は、戦いを求めて、そして、戦いの中で、その本領を発揮していきます。

 

★新政府軍の進軍開始

 明治2年4月9日、北海道に上陸した新政府軍は、函館へ向かって三方向に分かれて進軍を開始しました。

 このため、土方も函館政府軍を率いて、進軍を開始します。

 自らは二股口 という峠に向かいました。

 

 戦いを前に、土方は自らの思いを部下に、次のように語っています。

 「我が兵は限りあるも、官軍は限りなし。しかるに、吾任せれて敗れなば、すなわち武夫の恥なり。」(函館戦記)

 

 (意訳)兵の数は敵方の方が多いけれども、ここで私に任されて負けたのならば恥である。

 

 明治2年4月13日、二股口に新政府軍の500人の兵士が出現する。

 これを迎え撃つ土方隊の兵は、130人と 1/4の兵力であった。

 

 土方は、陣を構えて山の上から鉄砲を撃つよう陣形を配置し、優勢に戦いを進めていた。

 そこに 山のあちこちから新政府軍のものと思われるラッパの音が聞こえてきました。

 ラッパの音に動揺する兵士たち。新政府軍に包囲されているのではないかと怯え始めます。

 ここで、土方は、動揺する兵士に向かって叫びます。

 「敵が背後に回ろうとするものであれば必ず密かに進むはずだ。これは我が軍を恐れさせ、逃げ出させようという作戦である。退くものあればこれを斬る。」(土方の部下の日記より)

 兵士たちは土方の一言で踏み止まり、新政府軍を押し止めることに成功しました。

 

 そして、その夜、兵士たちは驚きました。

 土方が自ら酒を携えて陣地内を周り、一杯ずつ酒をついで兵士たちを労っていたのでした。

 

 そして、土方は、言います。

 「少ない兵力で大軍に対してよく守ってくれている。たくさんの褒美を与えたいが酒によって軍の規律を 乱すと困るので 一杯だけにさせてくれ。」(土方部下の日記より)

 陣地の中は笑いに包まれていました。

 

 この頃に、部下の一人が描いた土方の絵「戦友姿絵」には、このように注釈されている

 「土方は年をとるにつれ温和になり、人々が彼に信頼を寄せる様は赤子が母を慕うかのようであった。」

 

 この様子を昔の新撰組の隊士たちが見れば、我が目を疑うでしょうね。

 

★土方歳三の死への覚悟

 明治2年4月15日土方は、一旦戦場を離れ函館の五稜郭に戻ります。

 そして、小姓の 市村鉄之助を呼び出しました。

 市村は、この時まだ16歳の少年兵でした。

 そして、土方は、自身の愛刀・和泉守兼定、自身の写真、家族に宛てた手紙を市村に渡すとこう伝えました。

 「江戸に戻り、日野に住む自分の縁者に、これまでの戦況を伝えよ。」

 市村は、これに対し抵抗します。

 「それは嫌です。 私はすでに討死の覚悟を決めていますから、誰か他のものに命じてください。」

  すると、土方は「わが命令に従わざれば、今、討ち果たすぞ。」と言い、剣を抜いて斬りかかってきたといいます。

 驚いた市村が、命令に従うと答える、と土方はにっこりと笑い、

 「日野へ行けば必ず面倒を見てくれる気を付けて行けよと告げました。」

 

 そして、「外へ出て小さくなった建物を振り返ると、小窓から自分を見送っている人が見えました。土方隊長だったと思われます。」市村はこのように語りを残しています。

 

★最後の戦いへ

 その後、戦いは進行していき、土方が守る二股口は、新政府軍の攻撃を死守していましたが、もう一方の海岸線を守る旧幕府軍が新政府軍に突破され、五稜郭に迫ってきたという知らせを受けました。

 このため二股口で戦う土方たちは、五稜郭に戻らざるを得なくなりました。

 つまり、函館の旧幕府軍の敗北は、決定的なものとなってしまいました。

 しかし、この時期、土方は周囲の人に、こう語っています。

 

 「もし、我が軍が、官軍と和睦でもすれば、地下で近藤と相見ゆるをえない。」

 (意訳)ここで、我が軍が降参してしまったら、死後、近藤に会わせる顔がない。

 

 そして、明治2年5月11日、朝、土方は出撃します。

 その時の様子を記録していたのが、土方の補佐官・大野右仲という人物です。

 この記録によると、土方は午前8時、大野らとともに一本木関門に到着しました。

 しかし、この時には、一本木関門、旧幕府軍の敗れた兵士が次々と戦場から退却してきていました。

 

 土方は、大野に命じます。

「速やかに、兵を進めよ、私はこの柵にあって退くものを斬る。」

 これを受けて、大野は兵士を率いて前進を開始します。

 そして、土方が背後で指揮をとり始めると、旧幕府軍は勢いを取り戻し始めました。

 

 しかし、突然、それまで奮闘していた旧幕府軍の兵士たちが次々と逃げ始めました。

 

 前線で指揮していた大野は不思議に思い、一本木関門まで、急行引き返して、土方の戦死を知ったとのことでした。

 

 土方は、銃弾を腹部に受け、大野が抱き起こした時には、意識はなかったと言います

 

 土方の戦死から一週間の後、 旧幕府軍は降伏して、1年半に及んだ明治維新の内乱である戊辰戦争は終了しました。

 

 土方は函館でできた政府の閣僚の中のただ一人の戦死者でした。

 その亡骸は戦争の混乱の中で埋葬されたといいますが、場所は明らかにさせていません。

 

 一説によると、土方が「逃げる者は斬る。」と太刀を抜き、味方の兵を鼓舞し続けたため、死を恐れた味方から撃たれ、死体を埋め隠されたという説もあります。

 

 また、一方では、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されたとも言われ、未だに場所は特定されていません。

 

 しかし、いづれにしても、土方は、今も函館のどこかで、人知れず眠っています

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