歴史上の人物

14代将軍 徳川家茂と和宮は相思相愛?

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★幕末の動乱期に担ぎ出された悲運の人

 皆さんは、江戸幕府の14代将軍・徳川家茂について、どのようなイメージをお持ちですか?

 よく言われているのが、時の天皇の妹である和宮を嫁にもらい、気苦労が多かったということも聞きますが、実は和宮とはとてもラブラブだったようです。

   その証拠に、家茂と和宮の墓は、東京都港区の増上寺に並んでたてられています。

 また、家茂は、性格もとても真面目で、13歳で将軍に就任した後も、本人は良い将軍であろうと、習い事に真面目に取り組んで文武両道に努め、幕臣からも、厚い信頼を得ていた好感度の高い人物だそうです。

 それでは、この家茂が、どのような人物だったのか、御紹介していきましょう。

★幼少時代は泣き虫で有名だった。

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 家茂は生まれつき病弱でした。そして、とても優しい性格だったといいます。

 また、6歳の頃には、江戸城で12代将軍家慶とその世継(のちの13代将軍家定)に拝謁する直前、緊張のために声を出して泣き出してしまったという逸話も持っています。

★家茂はスイーツ男子?

 そして、家茂は、食べ物で甘いものが大好きな、今で言う、いわゆるスイーツ男子でも有名でした。彼に関する史料を見ていると様々なお菓子の名前が出てきます。

 例えば子供の頃に好きだったと伝わっているのは樽柿。渋柿を空いた酒樽で渋抜きして甘くしたお菓子ですが、柔道の師匠の頭の匂いが「樽柿に似てる」と言って、会うたびに膝の上によじ登り、匂いを嗅ぎたがって甘えていたそうです。

★書道の師匠との逸話

 また、書道の師匠は、戸川播磨守安清という書の名人として知られている幕臣でした。

 そこでも真面目に書道に取り組み、とても良い生徒だったそうです。

 しかし、ある日突然、家茂はふざけた様子で書道の師匠の白髪頭に硯の水をかけ、手をたたいて笑い出しました。

 同席していた側近たちは、家茂らしくない行動に驚きつつも、書道の師匠として敬わないことに、口にはできないものの嘆いていました。

 そして、師匠である戸川播磨守安清は、泣き出してしまいます。

 その泣き姿を見ていた側近たちは、家茂の振る舞いを情けなく思って泣いているのだと思ってましたが、真相は別にありました。

★硯の水を頭からかけた本当の理由

 戸川播磨守安清は、後日この状況を回顧して、次のように述べたといいます。

 「あの時、私は年をとってしまったために、ふとしたはずみで失禁をしてしまったのだ。将軍様の前で失禁など、厳罰は免れぬ失態。しかし将軍様は私に水をかけて失禁を隠してくださったのだ。そんな配慮をしてくださる優しさが嬉しくて、つい泣いてしまったのだ。」

 このエピソードを聞くと、家茂が単にやさしいだけの人物ではなく、状況に応じた臨機応変な対応にも長けていたことが分かりますね。

★家茂と妻・和宮との結婚

 そして、こんなにやさしい性格の家茂ですが、17歳の時に結婚をすることになります。

 しかし、その結婚式ですが、それまで将軍の婚儀とは違う点がありました。それは本来男が主人、女が客分として行われるところ、家茂が客分、和宮が主人という逆転した立場で行われました。それは、妻である和宮が時の天皇である孝明天皇の妹だったため、将軍よりも身分が高いという逆転現象が生じたためでした。

 一方で、和宮は、この結婚に気が進まなかったようです。

 これは、江戸時代も平安時代のような生活を守っていた御所育ちの和宮にとっては、江戸の武士の生活が海のものとも山のものとも分からず、野蛮ではないかという先入観もあったのでしょう。結局、和宮は結婚の条件として「御所風の生活をすること」を挙げて、結婚することとなりました。

★家茂と和宮とのラブラブな結婚生活

 このような状況での結婚でしたが、二人の結婚生活は大変幸せなものでした。それは、ひとえに家茂の温かな心遣いがあったからと言えるでしょう。

 中でも、家茂は和宮を思いやり、通常であれば、多くの側室を置くことができる身であるにもかかわらず、一人の側室もおくことがなかったことが、和宮が家茂を慕った一番の理由であると考えられています。

 結婚当時、家茂は17歳。現代でいえば高校生くらいで、他の女性に興味を持たない方がおかしいぐらいなのですが、妻のために側室を置かなかったということからも、家茂のやさしさと誠実な人柄が伝わってきます。

 また、和宮もそうした家茂に次第に心を許していったようで、家茂上洛の際には自らお百度を踏んで無事に帰ってくることを祈ったと伝えられています。

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★早すぎる家茂の死

 家茂は、21歳の時、長州征討の陣中である大坂城で体調を崩してしまいます。

 このため、妻である和宮からは砂糖が、そして義理の母である天璋院篤姫からは大小豆が見舞いに送られました。

 しかし、家茂はそれらが手元に届く前に亡くなってしまいました。

 一方で、家茂は江戸を発つ前に、和宮にお土産は何がいいかと尋ねています。これに対し、和宮は京の絹織物である西陣織を頼んでいます。しかし、この西陣織も、家茂から手渡されることはありませんでした。

 結局、自分がお願いしたお土産を、形見としてこれを受け取った和宮は「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」と詠み、家茂の追善供養のための袈裟に仕立てられたと伝えられています。

 そして、この袈裟は、現在も「空蝉の袈裟」として東京の増上寺に収められています。

★横に並ぶ2つの墓

 その後、和宮は明治10年、脚気衝心により死去します。そしてその遺体は和宮の「家茂の側に葬ってほしい」という遺言どおり、東京都港区の増上寺に家茂と並んで葬られました。本来、将軍の墓と妻の墓が横に並ぶことはないのですが、和宮の身分に敬意をはらった結果でしょう。

 短い結婚生活にも関わらず、家茂の側で眠ることを選んだ和宮。

 これは、江戸に降嫁することとなった和宮の不安や恐怖を和らげ、心の拠り所となった家茂の存在の大きさを二つならんだお墓は感じさせてくれます。

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