戦国時代最大の出来事とも言われている「本能寺の変」ですが、この天正十年6月2日は、徳川家康も織田信長の招きを受けて、堺見物をしていました。
そして、明智光秀は、信長を自害に追い込み、次に嫡男・信忠も自害させます。
次に狙われるのは、同盟者である徳川家康の他ありません。
この時の家康一行は、わずか三十名の手勢しか率いておらず、領地・三河への道のりには、家康の首を狙う勢力で溢れていました。
家康は、ここで世にいう「伊賀越え」を行って、領地・三河へ帰還したのでした。
そして、この伊賀越えは家康にとって終生忘れられない出来事だったようです。
家康は、死の三日前の病の床で、この「伊賀越え」の道中の様子を突然家臣に語り始めたと伝えられています。
今回は、本能寺の変の後の、家康の「伊賀越え」のお話を御案内します。
目次
★徳川家康の大坂からの大脱出
天正十(一五八二)年六月二日、堺見物を終え、信長に会うために京へと向かう徳川家康の一行は、現在の大阪府四條畷市に差し掛かったところでした。
そこに懸命に馬を走らせてくる者がありました。京の徳川家御用商人・茶屋四郎次郎でした。茶屋の報告は、家康の一行を驚愕させます。
「明智光秀の謀反により、本能寺において本日信長公が自刃されました。」
この連絡は、光秀が次に首を狙うのは、信長の同盟者にして天下取りの最大の障害である家康以外にいません。
そして、この時、家康一行はわずか三十人しかいませんでした。
しかも、家康の領国・三河に戻る街道には、もう既に家康の首を狙う勢力で溢れています。
この状況に追い詰められた家康は、「見知らぬ土地で賊に襲ねれて死ぬくらいなら、信長公のご恩に報いるべくここで自決する」とロにします。
しかし、重臣たちの必死の説得により自刃を思いとどまり、家康も、大坂からの大脱出を図ることとしました。
けれども、大脱出には経路が問題でした。通常、河内から三河へは京を通り、琵琶湖畔を抜ける街道を使いますが、京都が明智の勢力下になった今、街道を使うことはできませんでした。
このため、家康が選んだのは、山城、近江の甲賀、伊償を通り、信長の次男・織田信勝が治める伊勢へと抜ける最短ルートでした。
★徳川家康は落ち武者狩りと山賊の襲撃からの危機を免れる
家康一行は、夜を待って出発し、まずは、山城国に向かいます。
この時、最も警戒しなければならなかったのが、落ち武者狩りです。
この落ち武者狩りには、時には百人ぐらいの集団で襲ってくることもある武装集団なので、わずか三十人の家康一行ではかないません。
このため、重臣・本多忠勝は、村の長老に次の村まで案内するように迫ります。
この当時、畿内では村の自治が非常に発達しており、そこで村の長老に道案内させることで、落ち武者狩りを牽制しようとしたのでした。
この狙いは当たります。つまり、長老を人質にとられた村の男たちは、人数に劣る家康一行に何もできず、通過させるしかありませんでした。
やがて、道が進むにつれ、あたりに人里は途絶えていきます。このため、長老の道案内も効力を失くなってきました。
すると、次は、山賊が襲いかかってきます。
完全武装した強盗略奪集団の山賊と闇夜の山中で戦えば勝ち目はありません。
この時、京の徳川家御用商人・茶屋四郎次郎が進み出て、懐から金を取り出しました。
茶屋は、山賊は金品目当てで、お金さえ手に入れば、無駄には戦わないということを知っていての行動でした。
このようにして、家康は、脱出一日目に落ち武者狩り、山賊の襲撃を何とか免れれ、木津川を渡り、宇治田原にたどり着きました。
つまり、最初の難関である山城国を突破したのでした。
★徳川家康は甲賀の多羅尾光俊の居城・小川城に入る
家康の大脱出二日目、宇治田原を出て、近江の甲賀へと向かいましたが、すでに、近江一帯には、家康が逃げ延びているという噂が届いていました。
この記録には「家康の首を取った者に、明智から恩賞が出る」とあります。
このような、いつ誰から襲われてもおかしくない中、家康は甲賀の多羅尾光俊の居城・小川城に入りました。
信長に仕えていた多羅尾氏は、家康にとって数少ない信頼できる土豪でした。
家康は、この城で一夜を過ごします。家康は、山を一つ越えた伊賀国の情勢把握を行っていたのです。
実は伊賀の人びとは、信長を激しく憎んでいました。
その理由は、近畿で唯一自分の軍門に下らないため、四万四千の大軍で伊賀に押し寄せ、農民であろうと女性であろうと殺し、寺社・民家まで焼き払ったからでした。
家康は、その信長の最大の同盟者です。伊賀にとっては、家康もまた、憎き敵以外の何もでもありませんでした。
つまり、伊賀は、家康の通過を知れば、間違いなく全力で襲いかかってきます。
このため、伊賀で味方を見つけること以外、家康が生きて伊賀を越えることは不可能でした。
小川城から伊勢へ脱出する最短の経路は、伊賀の丸柱、柘植を抜け、加太峠を越えるルートでしたが、味方にすべく家康が最初に目をつけたのは、伊賀入口の丸柱を領地とする土豪・宮田氏でした。
★徳川家康は伊賀の宮田氏を味方につける
宮田氏を味方にすれば、待ち伏せを牽制できるだけでなく、他の土豪の動きも把握できます。
しかし、宮田氏にとっては、家康への協力は周辺の土豪たちを敵に回すことになってしまいます。
この難しい交渉に、家康は一緯の望みを抱いていました。
それは、家康が前年の天正伊賀の乱の時、三河まで逃れてきた伊賀の地侍たちを信長の意に反してかくまって、救ったことでした。
宮田氏がそのことを知っていて、恩義を感じてくれるかもしれない。
家康は、宮田氏への使者として父親が伊賀出身の家臣・服部半蔵を送り込みました。
さらに家康は、この時、宮田氏に「山川」という名馬を贈りました。
つまり、名馬を与えることで、無事に三河に戻つた暁には、宮田氏を家臣として取り立てることを確約したのでした。
そして、宮田氏は、家康への協力を約束しました。このようにして協力者を得た家康は、最後の難関への出発を前に家臣を集め、手持ちの金子を一人一人に分け与えました。
★徳川家康の大芝居
大脱出三日目の朝、宮田氏の手勢に守られながら、家康一行はついに伊賀へと踏み入りました。
そして、桜峠を越えた家康は、伊賀の入り口からおよそ十五キロの柘植という集落に到着しました。
ここで、伊賀の土豪を牽制して家康を守ってきた宮田氏は、ここから先は勢力外となるため引き返すことになりました。
しかし、その先に道中最大の難関が立ちはだかっていました。
伊賀と伊勢の国境にある加太峠越えです。・
この峠は十キロ以上にわたり険しい山道が続き、ほとんど集落もありません。
険しい道で伊賀の忍術を身につけた地侍や土豪、山賊に待ち伏せされれば、家康一行はひとたまりもありませんでした。
この時、家康は思いもかけない行動に出ました。
柘植の古い寺、徳永寺に立ち寄ったのでした。ここで家康は、道中最大の芝居を打ちます。寺の住職に、一杯の茶のお礼にと、門前から見える限りの土地の寄進を約束したのでした。
このことで、伊賀の土豪たちの態度が変わりました。寺の檀家でもある土豪たちにとって、寺への寄進は家康が伊賀の敵ではないことを示す何よりの証でありました。
そして、柘植周辺の地侍が、加太峠越えの護衛をしてくれることになったのでした。
★徳川家康の伊賀越えの終了
脱出三日目、伊賀の土豪に守られた家康は、ついに加太峠越えを決行しました。
この道中、土豪や山賊の襲撃にあった家康を守りぬいたのは、家康が敵地で味方につけた、同じ伊賀の土豪たちでした。
こうして家康は、最大の難所・加太峠を突破し、本能寺の変後、三日間の大脱出の末、ついに伊勢へとたどり着いたのでした。
後に天下人となる家康がようやく九死に一生を得た瞬間でもありました。
天正十年六月四日、無事に領国三河に戻った家康は、助けてくれた伊賀の土豪たちの多くを家臣の服部半蔵のもとに召し抱えました。
一杯の茶をもてなされた家康が、領地の寄進を約束した柘植の徳永寺には、家康に命じられ伊賀を治めていた藤堂高虎から送られた門前の土地を徳永寺に与えるという寄進状が残されています。
家康は、伊賀越えの時に受けた恩を忘れていなかったのです。
元和二(一六一六)年、家康は七十五年の生涯を閉じます。
死の三日前、病の床で家康は、伊賀越えの道中の様子を突然家臣に語り始めたと伝えられています。
この伊賀越えは家康にとって終生忘れられない出来事だったのでした。