合戦のお話

一ノ谷の戦いでの「鵯越の逆落とし」は実際にあったのか?

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源氏が平氏を滅亡させた源平合戦の主役は、何と言っても源義経だと思われます。

戦いの中で、彼特有の状況を見極めた臨機応変な戦術は、天才軍略家として賞賛に値するところです。

なかでも、義経の戦い方の中で、特に有名なのが、一ノ谷の戦いでの「鵯越の逆落とし」だと言われています。

ところが、この「鵯越の逆落とし」が、史実ではないという説もあります。

なぜならば、現存する鵯越に行ってみると、たいして険しい場所ではなく、しかも、そこを下って行っても一ノ谷に出ることはできないのです。

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それでは、実際に一ノ谷の戦いとは、どのようなものだったのでしょうか。

今回は、この内容についてご案内します。

 

★天才軍略家・源義経

天才軍略家である源義経。彼の戦い方には、後世に語り継がれるものが幾つもあります。

例えば、平氏の本拠地・屋島を奪った奇襲作戦や、最後の壇之浦の戦いでの船から船へ飛び移った八艘飛びなどは有名です。

なかでも、一ノ谷の戦いでの「鵯越の逆落とし」は、彼の見事な戦略の代表策だと思われます。

この戦いは、一ノ谷という北側に険しい六甲の山々がそびえ、南側は海、東側は「鵯越」という急な崖で、ここを降りることができるのは野生のシカぐらいと言われていました。

そして、戦いが開始された26日、天然の要塞に守られた平氏軍は万全の態勢で源氏軍と応戦し、合戦開始後、戦局を優位に展開しました。

ところが、翌27日の明け方、義経は精兵70騎で鵯越を真っ逆さまに駈け下り、平氏軍本陣に火をかけて、本陣を総崩れにしたというものでした。

この戦法で平氏軍の多くの武将が討ち取られて、その後の戦いを優位に進めることができたという分岐点にもなりました。

 

★鵯越の場所がおかしい

しかし、この「鵯越の逆落とし」ですが、史実ではないという説があります。

その根拠は現在もある鵯越は、たいして険しい場所ではなく、しかもそこを下っても直接一ノ谷に出ることはできず、離れているため、奇襲攻撃にはならないのです。

では、奇襲攻撃がなく、陣地的に有利で、前日まで戦争を有利に進めていた平氏軍は、なぜ敗れてしまったのでしょうか?

 

★「吾妻鏡」に記載された内容

鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」によりますと、この戦いの裏には平氏と対立していた後白河法皇の策略があったとされています。

その「吾妻鏡」の内容を説明すると、次のとおりです。

まず、戦い初日の26日の夜に、後白河法皇から平氏軍あてに書状が届けられました。

そして、その書状には「和平交渉を行うから、安徳天皇(母は平清盛の二女・建礼門院)と三種の神器を携えて都に戻るように。」と記載されてました。

そして更に、「28日に和平の使者を送るので、それまで戦いをしてはならない。このことは源氏にも伝えている。」とも記載されていたのです。

このため、この書状を受け取って安心して武装解除して眠りについた平氏が、7日の早朝から源氏軍の攻撃を受け、敗れてしまったというのでした。

 

★「吾妻鏡」説の矛盾点

それでは、この「吾妻鏡」の内容が正しいのだろうかというと、これも疑問点が湧いてきます。

実際、戦争中に、どこまで真実味があるか分からない後白河法皇の書状を100%信じて、 武装を一時的に解除するというのは、余りにも危機感のない話で、現実的ではないと思われます。

ただでさえ、味方だと思っていた後白河法皇が源氏サイドにつき、都を離れなければならない平氏にとって、こんな内容の書状が届いたところで、本当に信じるのでしょうか?

 

★歴史とは勝者が書き換えるもの

一方で、歴史とは、勝者が都合良く書き換えることが多々あるものです。

源平合戦の場合、最も活躍した源義経が、最終的に鎌倉幕府初代将軍で兄の源頼朝に殺されてしまいます。

「吾妻鏡」は、鎌倉幕府によって作成されたものですので、源義経の評価を下げる形で記載するのは、ごくごく自然なことだと思われます。

また、鵯越の場所にしても、歴史上の出来事で、この場所だと言われていたところから若干ズレていることもよくあることです(例えば、本能寺の変跡地の石碑は違う場所に立っています。)

ですから、例えば、鵯越ではなく、もっと西側の鉄拐山か、鉢伏山であらば、一ノ谷で陣地をはる平氏軍にも十分に奇襲攻撃にもなりえるところですので、それらの山から奇襲攻撃を仕掛けたというのは十分に可能性としてありえると思われます。

 

しかしながら、今となっては、真実は分からないところではあります。

 

★まとめ

それでは、最後にまとめさせて頂きます。

・「鵯越の逆落とし」は史実ではないという説がある

・現存の鵯越の場所が、一ノ谷へ奇襲攻撃できない場所にある

・一方、「吾妻鏡」には、後白河法皇が書状で和睦しようと持ち掛けて、油断した平氏が源氏に敗れたと記載されている

・だけど、武士の二大看板を背負う平氏が、戦争中に和睦の書状を信用して武装解除するのは余りにも違和感がある

・それに、吾妻鏡は鎌倉幕府が作成したもので、源義経の評価を下げる記載があっても全然おかしくない

・それに、鵯越の場所も、西側に一ノ谷を奇襲できる山があり、その山から奇襲したというのは十分に考えられる

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