キリスト教は戦国時代初期の天文18年(1549年)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルによって、日本にもたらされました。
ザビエルは、ポルトガル国王の要請を受けてインドやモルッカ諸島などで布教活動を行っていました。
そして、ザビエルはマラッカで出逢った日本人の案内で薩摩に上陸します。
その後、ザビエルは、平戸から博多、山口を経て京都までの間にキリスト教の布教活動を行ったのでした。
その結果、大村純忠(肥前大村城主)、大友宗麟(豊後臼杵城主)らのように、キリシタンになる戦国大名も現れるなど、キリスト教は日本全国に広まっていきます。
しかし、これらのキリスト教布教活動には、彼らが日本を植民地化するためのスパイ活動が含まれていました。
目次
★ ポルトガル国王とイエズス会との密約
そもそもイエズス会は、キリスト教を世界に広めることを目的とする修道会です。
このため、修道士たちは、長くて困難な船旅をして、現地で布教活動をしていました。
しかし、航海には多額の費用がかかります。このため、ポルトガル国王の資金援助は不可欠なものでした。
このため、ポルトガル国王は、宣教師たちに資金援助をする代わりに、布教活動を行った国々を植民地化するためのスパイ活動を条件としていました。
ザビエルも日本に滞在中に、ポルトガルの植民地であったインドのゴアに、日本の状況を記載した手紙を送っています。
その手紙の内容は、日本の鉱山は多くの金を産出するので多額の利益が見込めるとか、大坂にヨーロッパの品物を収容する倉庫をつくることや、ポルトガルの役人が住む場所を得ることが出来そうであるなどという情報が記載されていました。
★バテレン追放令の経緯
一方で、これに対して日本は、このスパイ活動に気付いていたのでしょうか?
まずは、キリスト教布教が始まって間もない頃、目新しいものが好きな織田信長は、キリスト教を保護していました。
しかし、豊臣秀吉の時代になると、始めこそキリスト教の布教活動を認めていたものの、次第に方向転換していきます。
これは、ポルトガル人宣教師と日本人キリシタンとの会話の中で、宣教師が持っていた世界地図の中の様々な国がポルトガルの植民地となっている理由を尋ねたところ、その国で布教活動を行ってキリスト教信者になった人々の応援を受けて植民地化しているということが秀吉の耳に入ったからでした。
そして、ついに天正15年(1587年)、秀吉はバテレン追放令を出して、宣教を一切禁止しました。
★決定的となったサン・フェリペ号事件
さらに、慶長元年(1596年)には、サン・フェリペ号事件が生じます。
このサン・フェリペ号事件とは、スペインの大型船サン・フェリペ号が、暴風にあって土佐の浦戸沖に漂着したとき、秀吉が船荷と船員の所持金をすべて没収したという事件でした。
この事件の際、秀吉は土佐に側近を派遣して調査を行わせています。
そして、「植民地化計画」に関する資料の説明を求められたサン・フェリペ号の航海長が「スペインはキリシタンを増やして日本侵略を狙っている。」と自白したことが判明したのでした。
この結果、秀吉は更なるキリシタン弾圧を開始します。
この事件があった慶長元年だけで、26名のキリシタンが処刑されてしまいました。
★では「植民地化計画」とはどのような内容だったのか
それでは、ポルトガルがスペインの「植民地化計画」とはどのような内容だったのでしょうか?
慶応義塾大学名誉教授の高瀬弘一郎博士が発見したとされるその内容は、やはり「イエズス会の宣教師たちは自国の軍隊を日本に上陸させ、一方で日本のキリシタン大名たちに反乱を起こさせて一挙に植民地化を完成される」計画だったと記載されていたそうです。
★最後に
かつて信長は、天下統一を目指す中で、一向一揆を抑えるのに相当な労力を使いました。
秀吉のキリシタンの弾圧と処刑は、残忍過ぎるとの意見もありますが、その経験を踏まえてのものなのでしょう。
そして、秀吉の立場からすると、せっかく天下統一を成し遂げたのに、また新たなキリスト教という敵を排除しようとしたのは無理もないことなのかもしれません。
その後、このキリスト教の禁止は、家康の時代になっても継続していき、更には三代将軍・家光のときに鎖国に入るのでした。